関取花を聞いていると育ちの良い大正時代の娘という感じで懐かしいような、苛立つような気持ちになる
昔から愛されて育った人にふとした時に気付いてしまう
関取花もそうなんだろうな、とよく感じる
人は悩む生き物らしい
育ちや環境にかかわらず、とにかく悩みを見付けて拘泥する
私が仮に安定した状態で成人できたなら、どんなことで悩んだのだろうか?
恋愛や家庭、仕事で悩んで在り来たりな自己啓発に少し救われて、その場しのぎをしながらそれでも悪くない人生だと思いながら生きていたのかもしれない
今、私は息をするのも苦しい
昔からそうだったように
これからも私は「ここ」に居場所を見付けられず、かといってどこかへ行くわけでもなく、浅く息をしながら生きるのだろう
手から零れ落ち、砕けたかつて大切にしていたものの残骸を見下ろしながら
あまねく大切なものをこれからも守れないと痛感しながら
どれほど能力を上げても
どれほど知識を付けても
どれほど評価を受けても
私は自分が生きていくことを認めていないのだから満たされるはずもない
その方向は崖だから危ないと必死に訴える言葉は理解されず、落ちてから怨嗟の言葉を吐かれるのは疲れた
誰かが何とかしてくれると安穏と構えている人の群れは見ているだけで嘆息が尽きない
これからを良くするには今より悪くしない大前提を押さえた上の話
しかし、自分が何に守られて現状を享受しているのかさえわからない人の群れが無責任に妄言を飛ばしている
自分の事は自分でやれば良いだけなのに
誰かではなく、自分にできることをやればわかるのに
甘やかされたお坊ちゃんたちの時代
そんな風に現代を揶揄していた哲学者がいたっけな
哲学書なんて読み漁るものではなかったな