久しぶりにゆっくりとブログを更新する時間ができ、ようやくパソコンから書けるようになった。
思い返してみれば私の人生は「家族」という問題を中心に巡って来たように思う。
その殆どは反吐が出るようなものだったけれど。
私が一般的に強いとされる人間に、特に弱い立場の人間を虐げるタイプの強い人間に襲い掛かる癖があるのは、幼い頃からの記憶に振り回されているからなのだろう。
止められるものなら止めてみろ、という気持ちが私の中で常に燃え盛っている。
私は負ける事に慣れているので、負かされる事自体は怖くない。
負けても良いから一撃加えてやらなければ気が済まないのだ。
怖いのは、かつての自分のように理不尽にさらされている人がいると分かっているのに見過ごして忘れた振りをする事。
私が恨み続けて来た人物たちと同じ部類になる事。
幼い頃からの習性なのか、大切なものを守れるのは強い者だけなのだと体が知っている。
私は私なりに、理想とは言えないけれど必然に導かれて強さを追い求めて来た。
「本当に怖い」
そう言われ始めたのは高校生の辺りだったように思う。
止められない力を持っている人間に対して人は恐怖を抱く。
いつかの私もそうだったように。
気が付けば私はそう簡単に止められない人間の中に入っていて、私と目が合う人間が愛想笑いをするようになった。
本心を私に言う時には相手が震えていたり、半狂乱になっている事も少なくなかった。
強さを追い求めた結果、私はいつかの師匠連中や親と同様に恐怖の対象でしかなくなったのだ。
私が最も忌み嫌っていた部類の人間に成り果てた。
異なる道を全力で進んでいたはずなのに。
こうやって人は地獄に堕ちるのだと、私はその時に思った。
私ただ不条理に苦しめられている人を助けたかっただけなのに。
優しいだけでは何も守れないと知ったからこそ、強さを思い求めたのに。
その強さの扱い方を知ろうとしなければ、私は不倶戴天の敵と同じ部類の人間に堕落すると知らなかった。
刀は鞘に納められているから良いのであって、むき出しの刀身が鈍色に反射している状態が常ならば誰だって避けたくなるのは当然。
年齢を言い訳にするけれど、高校生の私にはまだそれを受け入れるだけの度量がなかった。
理解しない相手や世間に責任を押し付け、私は自己正当化を続けるしかなかった。
それでも理解してくれる人たちは少数いた。
私と同じように強さを追い求めた人たちは、私の慨嘆を受け入れてくれたのだ。
それが当時は救いだったように思う。
親族、友人、クラスメイト、先輩、後輩、先生、師匠、ありとあらゆる人間に憎悪を燃やす私は、その燃料が私自身である事にまだ気付かなかった。
燃え尽きた時、人間がどうなるのか理解していなかった。
強いだけではなく、その血からの使い道を知ろうと模索していたのが私の20代。
その方法は知識を付ける事しかないと、どうしてなのか無根拠に確信していたように思う。
文武両道にしか私を救う道はなく、その道を見付けなければ私は生きていけないと本気で信じていた。
気が付くと私の持っている暴力性は周りの人間だけではなく、私自身にも切っ先を向けていたのだ。
死に物狂いで学ぶ中で、己の愚かさがどれほど致命的なものなのか痛感した。
強さを誇示するのは強い人間のする事ではない。
私が自分を強いと思っていれば、自然と立ち振る舞いや言葉遣いにそれが表れる。
誇示するのは私自身が弱いから。
誰よりも私自身が私の強さを疑っているから。
そう気付いた時、幼い頃から血反吐を吐く思いで乗り越えて来た数々の障害が無意味になった。
どれほど表彰されても、どれほど称賛されても私が全く嬉しくなかった理由も判然としたのだ。
私には表彰されたり、称賛されるような価値はないと、私自身が最も強く感じていた。
哲学は私が人生を掛けて作り上げて来た虚飾を砕き、ありのままの私を露出させてしまった。
体は空気のように軽くなり、初めて呼吸したかのように体の奥底まで空気が染み渡っていく。
何故なのか、私は幼い頃から苦しんできた呪いが解けたと感じた。
同時に私は気付いた。
これほどの年月を掛けて努力を重ねても一切変わらない、ありのままの自分というものが自分の中にいる。
それは人間如きの行動によって左右されるものではなくて、努力がとか時間がなんて無関係で。
おそらく、古来人間はこうしたものを『霊魂』や『ホーリースピリット』、『グレートスピリット』なんて呼んでいたのだろう。
努力が無関係な世界があるなんて思いもしなかった私にとって、これは本当に衝撃的な事実だった。
己の視野が如何に狭く、考えが如何に浅く、知力がどれほど濁っていたのか思い知らされたように思えた。
それを仲良くしてくれるお坊さんに伝えたところ、そういうものが悟りの境地なのだと教えてくれた。
悟りかどうかは分からないけれど、それから私の中で暴威を振るう怒りや恨みが小さくなったのだ。
ようやく、人を傷付けずに触れられるようになった。
私と目が合っても人が怯える事もなくなったし、話し方や顔付きまで変わった。
強さを思い求めた私が一度は恨んだ相手と同じ部類の人間に成り下がり、何とかその地獄から這い出したのが最近。
まだ思い出と呼ぶには生々しすぎるけれど、こうして見てみると私は私なりに生きて来た。
生きている事が素晴らしいなんて死ぬまで思わないだろうけれど、生きる為に必死だったことだけは確か。
そんな人生を送りたかったわけではないけれど。