例えば人生最高の日があったとする。
分かりやすくするために、例えばずっと手に入れたいと願ってきた異性と付き合える展開にしてみる。
その瞬間はまるでドラマのようで世界は光を増して、生まれた事を神に感謝するかもしれない。
創作の世界ならここで終わる。
しかし、現実は違う。
最高の瞬間を味わったその日、帰りがけにスーパーに寄り足りなくなりそうな食材を買い足して、風呂に入れば湯船には昨日浸かってそのままにしたお湯が水になっている光景が視界に入るかもしれない。
つまり、最高の瞬間を味わった1日には卵やらニンジンなら流し忘れた湯船の水も出てくるのが人生。
美味しいところだけ取る事が許されないのが人生。
そこに私はなんとなく愛着が湧いてしまう。
いつでもドラマが始まる用意が、人生にはあるのだ。
目玉焼きを焼いている途中かもしれないし、仕事中かもしれない。
通勤途中かもしれないし、通話中かも。
実際に何も起こらなくても、その余地があると分かるだけでも人生は鮮やかになる。
何だか、私らしくない文章。
世間が好きそうな明るく温い文章だ。
私がいつも暗い文章を書いているのは「ただいま」と同じ。
慣れ親しんだ場所に帰ってくる、その感覚が欲しいだけ。
実際にはよく笑うし、運動もしているし、栄養管理は仕事柄もあってかなり整っている。
それでも。
明るいところは苦手なので、そうした眩い場所から「ただいま」を言いたくなる。
すると、いつもの湿気た文章が出来上がるだけ。
本当は俺だって、人や世界の幸せを祈りたい。
でも、たぶんそれは私の役目ではないのだろう。