先月、出雲大社へ出掛けていた日本の神々は今月になると元の場所へ帰ってくる。
だから今月は神来月と呼ぶのだとか。
霜月の方が寂しさがあって個人的には好きなのだけれど。
私は自分の書く文章を文学、なんて偉そうな表現をしているけれど、その中身は結局のところ私の事なのだ。
気温、言葉、人の表情、食べたものなどが私の五感を通じて文字へと変わるだけなのに、私というフィルターを通過すると私の世界が色濃く滲む文学になる。
それは濾過されたのか汚染されたのかよく分からないけれど、とにかく私の世界が文字によって炙り出されたものになる。
私はそのようにしてしか、文字を通じて理解をしてもらう事でしか人と繋がる方法を持っていないのだ。
私の事を伝えると言っても、私は自分の人生をうまく形容できない。
うまく物語として伝えられないのだ。
人が誰かを理解する時、いや全ての出来事について理解する時、その形態は必ず物語となっている。
幼い頃に親が離婚し父親のいない家庭で育った、だから、男の人との接し方が分からないとか。
昔、酷い怪我をしたから血が苦手だとか。
1つの流れが現在と繋がって見えた時、人は誰かについて理解したと錯覚する。
男との接し方が分からないのは『男との接し方が分からない』と思い込んでいるだけかもしれない。
血が苦手なのは怪我をする前からだったかもしれない。
事実はどうであれ、物語があれば人は誰かや何かについて理解できたと思うのだ。
私の人生は何もかもが散り散りで、物語としての体を成していない。
だから、好んで自分について話す事はないし、話せる事もないのだ。
私が書いた文章を読んでいると体温を感じることがほとんどない。
人の書いた体温どころか匂いや音まで聞こえてきそうな、肉薄してくる何かが感じられないのだ。
私は人生の中で辛酸を舐めたつもりでいるし、人生は地獄の別名だと確信している。
そう思える事が私の人生には多すぎたのだ。
しかし、どうしてなのか私は不幸に酔えない。
私に対して非道な仕打ちをした人物に対する憐憫が必ず滲み出てくる。
『こんな事ができる人間に、どうしてなってしまったのだろう?』
善人ぶっているわけではなく、私は復讐すべき手合いに対してすらこのように感じてしまうのだ。
だから、支離滅裂になる。
その話なら相手に対して復讐すべきだ、と人が思う流れの中で私は過去に手を差し伸べたりしているからだ。
もちろん、地獄に堕ちろと思いながら。
地獄に堕ちてほしいほど憎んでいる手合いであっても目の前で奈落へ向かうのは耐えられないらしい。
そう考えると、私は臆病なのだろう。
私の目の前でなければ地獄に堕ちてほしいのだから。
そうかと思えば不倶戴天の敵に一切手を貸さず、ジワジワと滅び行く様を眺めている事もある。
目の前で苦しむ姿を楽しんでいるわけではない。
しかし、眺めている。
そんな時もあった。
どこに違いがあるのかは理解できない。
傍目から見れば単に気分屋ということになるのだろう。
そして、気分屋は物語を持っていない。
つまり、理解されないのだ。
しかし、私の中には一貫した何かがあるのだ。
それは言葉にならず、物語にならず、つまり私の姿を人から覆い隠す力となって厳然とそこにある。
私が誰よりも私の事を知りたいのに。