人は物語の中で生きている。
その物語は父と母から始まる、家庭から。
そこで物語が浮上して始まるのか、下降していくのかが決まる。
私や、私の友人たちは下降した人が多い、
私は仕事が物書きだから物語に関する情報が入ってきやすい。
感情曲線とは物語を読みながら読者の気持ちがどう動くのかを曲線で示したものだ。
これが感情曲線を様々な物語を通じて調べ尽くした結果出てきたもの。
ほとんどの物語は下降から始まる。
ともすると、私の人生は逆転かもしれないし感動かもしれない。
しかし、私には分かる。
そうした物語が私のものではない事が。
逆転も感動も、その主人公は素直で勝利に対する渇望をどこかで持っているものだ。
私のように勝利でも敗北でも同じ温度で受け取る人間には逆転も感動もありはしない。
残るのは悲劇、失落、笑い話。
失落と呼ぶほど高みに立った事はない。
悲劇と呼ぶには満たされ過ぎている。
私の生き様は笑い話、これなのだろう。
しかし、笑い話はスタートの位置が高い。
成功の物語のスタート地点から悲劇をなぞりながら余計なタイミングで浮上し、また下降する笑い話の亜種が私の人生。
そう思うと人生は虚しいものだと思い込む私の心性が理解できる。
意味のあるものだと考えれば私は人生の重圧に耐えられない。
起きた事のそれぞれを、受けた痛みの数々を消化できない。
全ては虚しいものなのだと思う事で、自らの人生を離れたところから笑う事で、私は自我を保ってきたのだろう。
私は失う事に関してほとんど気持ちが動かない。
大切にしているものでも失くなれば諦める。
執着しないと言えば響きは良いが、私はそのようにしてしか自分を守れないだけなのだ。
執着できないだけ。
失いたくないものが瓦礫になる様を見続け、大切な人が泣き喚く様を繰り返し眺め、私は執着心を捨ててしまった。
この笑い話の結末を早く知りたい。