「ごめんなさい(笑)」から始めるDMが私に届いたのは、昨日の宵だった。
未遂に終わった自殺の報告がその後に続いているDM。
返信が数日空いたので、もしかしたら……とは思っていたけれど、当たって欲しくない予感ばかり的中するものだ。
生まれる人もいれば死ぬ人もいる。
当然すぎる事。
それなのに、どうして病や死は忌避されるのだろう?
どうして病や死は、いつでも隣にいるのに「ないもののように」扱われるのだろう?
そんな風に人の世界から捨象されている何かを見付けると、私に親近感が湧く。
「あったはずなのになかった事」のようにしているものばかり抱えている私の人生は「ないものとして扱われる」ものとおそらく同じ属性なのだ。
誰も覚えていない事はなかった事になるのだろうか?
私だけ覚えている事を、私が忘れた振りをすれば、それはなかった事になるのだろうか?
それが平穏に繋がる唯一の道、思考なのだろうか?
人間の業の深さに打ちひしがれた時間が長過ぎた私には、忘れた振りなど決してできない。
「忘れた振り」をする対象が、その言葉の主語が「私の人生」なのだから。
一皮剥けば誰だって、という表現があるけれど、あれは嘘だ。
誰も皮など被っていない。
野卑な笑み、鈍く光る瞳、片側だけ口角の上がった口、空気をゆっくり撫でる眼球の動き、眉間に生まれる微かな緊張、思い込みを現実だと思って垂れ流すゴシップ云々。
誰も皮など被っていない、ありありとその鈍重で粗野で放埓な人間性を表現しているじゃないか。
そうしたものの数々が私のかつて見た地獄への紐帯となっている。
過去を忘れようと試みる私を冷笑している。
髪を紙やすりで撫でられるかのような不快感が継続する中で、私が頼ったものは有体なものばかり。
酒は飲み過ぎてアルコールアレルギーとなり、今では一滴も飲もうとすら思わない。
異性との関係は空し過ぎて過去を忘れるどころか、かつて不倶戴天とすら思った人間に自分が成り下がった事を痛感させる。
ドラッグ、ギャンブルはあまりにも愚かしいと考え、手を出そうとすら思った事がない。
結局のところ、私は素面でずっと地獄を眺める事しか出来ないのだ。
酒にも女にも頼れず、ただ哲学書を読み漁り、仕事に励み、体を鍛え、ひたすらに努力ばかり重ねて己を傷付けるしかない。
何を手に入れても、いつか捨てると分かっているからこそ満足感もない。
空蝉は全て虚構、自分のものなど何もない。
手に入れたというのは妄想で、成長したというのは盲信。
そもそも「私」などはどこにも存在しないもの。
それなのに痛みは「今まさにこの場に私が存在している」証明。
「ごめんなさい(笑)」から始まる水火の苦しみの淵源が「私」。
何もないのに全てあるのが人生であり、全て虚しいからこそ満たされているのが世界。
狂ったこの世で狂うなら気は確かなのだ。
救って欲しいと誰かに助けを求める事すら気怠い。
どこにも存在しない「私」を、どうやって救う事ができようか。