不幸のどん底に落とされた、というところで人生が終わってくれるのなら、きっと私は人生や人について今以上に好感が持てるように思う。
誠実に生きようとした人間がその篤実にもかかわらず塵芥よろしく零落していく姿というのは、きっと美しい。
その美しさはグロテスクで、きっと幼児にスナッフビデオを見せる行為に等しく、そんなものを理解する人間はおそらくいない。
人生は続くのだ。
どれほどの辛酸を舐めようと、その辛酸は飲み干すまで降り注ぐ。
舐める程度では済まない、人生はそんな優しさを持っていない。
そして、そんな苦痛などなかったかのような顔をして会社へ行き、仕事に励み、愛想笑いするしかない小話に耳を傾け、帰宅をしてからは紐が切れた人形よろしくただ暗闇に佇む。
辛酸が波打つ荒れ爛れた胃を隠し、翌日も人は会社へ向かう、家事に勤しむ、普通の人間として振る舞い、限界が来れば静かに消えていく。
きっと、どん底へ落ちるのはある種の快感を伴う。
そして、そこに酔う。
酔いが醒める時が来るとも知らず。
性欲でも酒でも精神薬でも創作活動でも鎮痛剤にしかならないのだ。
必ず醒める時が来る、恐ろしい静寂と共に私は人生に引き戻される。
人生と言っても良いし、過去と言っても良いし、地獄と言っても良い、形容の仕方は何でも構わない。
私は「ここへ」戻されるのだ。
酔う事にすら希望はないと分かってから、私は鎮痛剤を創作活動だけに絞るようになった。
窒息しそうな私の精神は文字を書いている時だけは呼吸が出来る。
逃れ難い現実から背を向け、必死になって走るような悲壮感と焦燥感に追われながら、眼精疲労で吐き気がしても指を動かしていた方がマシだ。
精神の皮膚が剥がされたように、そよ風のように心地の良い刺激であっても私には激痛になる。
それでも人生は続く、死ぬほどの激痛を抱えていても殺してなどくれない。
私は精神を病んでいないし、病院も薬も必要としていない。
おそらく誰が見ても私がこのような事を考えているとは想像すら付かないのだ。
体力は人並み以上にあり顔立ちは幼く、三十路を越えても大学生に間違われる。
私の顔からは飲み干した辛酸の雫すら感じられない。
苦悩とは無縁の人間に見えるらしい。
最近になると、妙に人から羨ましがられる事が多くなった。
私の苦悩してきたものは存在すらしなかったように扱われ、今の私が判断される。
私が人生だと思っているものと、周囲の人間が「私の人生」だと思っているもののあまりにも大きな間隙に、私は誰の話をされているのか分からなくなることがままある。
しかし、それでも良いのだ。
私などという人物はどこにも存在しないし、主語が私のものは全て虚構。
「私の人生」も「私の考え」も「私の服」も何もかもがフィクションなのだ、存在などしない。
それでも最近、少しだけ私の心に響いた出来事があった。
ジョーカーという映画を見たのだが、私が信頼する友人の何人かが私に連絡をくれた。
私が映画好きという事を知っている友人たちはジョーカーを見る前に私に忠告を与えてくれたのだ。
お前が見るのなら気を付けろ、気持ちを強く持て、と。
実際にジョーカーを見た後、私は妙に納得してしまった。
きっと、忠告をくれた友人たちは濃淡こそあれ、あそこに私の影を見たのだ。
不幸に酔うつもりは全くないけれど、私は確かに彼と重なる人生を歩んだように思う。
誠実に生きようとした人間がその篤実にもかかわらず塵芥よろしく零落していく姿が、ジョーカーの中で美しく描かれていた。
ジョーカーは塗炭の苦しみに破れ、私は破れかかっている。
それでも人生は続くのだ。
ジョーカーの人生も続く。
私のものも。
地獄というのは人生が「続く」ところにある。
続きさえしなければ、瞬時に命を奪ってくれるのならば苦しみすら存在しない。
水滴だって同じ場所に落ち続ければ岩を貫通するのだ。