私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

深夜にありがちなポエジーテンション

ここ最近、気圧が乱高下してくれたお陰で見事に体調が悪化の一途を辿っている。

明日からしばらく連勤にもかかわらず、また不眠症も悪化して私の心臓が悲鳴を上げる。

20代後半に入ってから私はそこはかとない死を漠然と感じるようになった。

自殺にありがちな激情や底無しの諦観、自己陶酔丸出しの絶望がまるでない、部屋にある椅子と同じくらい当たり前な顔をして死が傍らにあるのを感じるのだ。

精神を病んでいるからではなく不眠症が続くと内臓に掛かる負担が大きく、これを何度も経験する内にタイピングミスをした時のようにしれっと心臓が止まったり、脳の血管が切れるんだろうな、と予感している。

そう考えると人生は案外、優しいものなのかもしれない。

いきなり体から精神が引き剥がされるのではなく、ちゃんと予行練習をさせてくれるのだから。

こうやって死ぬから準備しとけよ、と。

不眠症さえなければきっと私は長生きする。

運動もしているし食事にもある程度配慮している。

検査をしたら見た目だけではなく内臓も全く問題はなかった。

それでも私は早く死ぬに違いない。

睡眠に問題を抱えた人間が長生きをした試しはないのだから。

長生きしたいとは考えていないし、私は十分に生きたと思う。

10代の頃から人生のあまりの長さに辟易としていて気分だけは老人のように感じるのだ。

さて、明日は何をしよう。

仕事をして副業をして、私は死ぬ直前まで俗世に頭まで浸かっているのだろう。

その割にあっさり死ぬのだと思う。

死ぬ前くらいは世の中の人の幸福を祈るような人間でありたい。

世を恨み、人を呪って生きた人生の大半を後悔しながら死にたいものだ。

美しいものと醜いものを明確に区別する、そんな清廉な心持ちで。

本当はもっと篤実に、純朴に生きたかったと悲嘆しながら。

人間の持つ負の面ばかりに囚われ過ごし、それでも歪な自分を捨てきれず僅かに肯定しながら。

こんな人生はろくでもなかったと毒吐き、二度と生まれ変わらないようにと願いつつ、残された人の幸福を祈りたい。

往生際まで醜く希望を持ちながら、人間らしく死にたい。