私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

精神の皮膚

友人が幸福について書いていた。

 

苦痛が幸福の引換券ならば幸福にならなくて結構だから苦痛もなくなって欲しい、という感じの話。

 

何故なのか、この話は私の何かに触れて連勤中にもかかわらずブログを書いている。

 

もう少し掘り下げると苦痛や幸福は相対的なものなので、苦痛があるから幸福があるという事なのだろう。

 

同じ水でも冬の帰宅後に手を洗うと温かく感じるというように。

 

人は変わるし環境も移ろいでいく。

 

変化は生きている以上は避けられない。

 

変化は刺激となり時として人生を彩り、時として人生を地獄に変える。

 

実は私も苦痛もなく幸福もない人生を強く望んでいる。

 

だからこそ、私は昔から苔になりたいと言い続けているのだ。

 

ただ日陰で目立たず静かに呼吸をする苔に。

 

それなのに私の実生活を振り返ると刺激と変化で溢れ、非日常的なことが日常のように起きている。

 

私は昔から苔になりたいなどと言いながら実際は刺激に満ち、恐ろしいほどの変化に身を投じて生きている。

 

私は天邪鬼なのだろうかとも思ったけれど、そうではない。

 

私や、友人のように過剰な感受性を持つ人間が刺激や変化から逃れる術などこの世にない。

 

必死に逃げても逃げ果せないのであれば、最大限の変化に身を投じても何も変わりはしないのだ。

 

私はこの世を見下している感がある。

 

どうにもならないのなら首を吊れば良いだけの事。

 

そして、人の世は必ず生き残る道が用意してある。

 

逃げ場がなくなるのは自己の世界だけであり、私の外に広がる社会と呼ばれる仮想空間で死ななければならない事態などない。

 

もしあるのなら、その時は静かに首を括れば良いだけ。

 

元いた場所へ還るだけ。

 

精神の皮膚を返せ。

 

人の言葉のことごとくに傷付くのは、精神の皮膚が剥がされているからだ。

 

心地良いはずの風は剥き出しの肉に爪を立て、安心するはずの人の体温で精神が焦げていく。

 

苦痛も幸福も、ありとあらゆる刺激は苦痛にしかならないのなら幸福になる道などありはしない。

 

空蝉は穢土なのだと、救いなどありはしないと、そう叫ぶ私の声は虚しく奈落に木霊するだけ。

 

ここに落ちてくる人に、私は微笑みかけながら土に還る日を一緒に待つしかない。

 

どうせ地獄にいるのなら楽しまなければ損。

 

狂ったこの世で狂うなら気は確かなのだ。