今月、何度鬼束ちひろの曲を聞いただろうか?
大抵、鬼束ちひろの曲を聞いている時は精神がやられている。
体調が悪い、精神が腐れ落ちている。
普段引き込もって仕事ばかりしているのに先月から外へ出過ぎなのだ。
それももうおしまい。
やるべき事は終わった。
あとは静かに、穏やかに過ごす日々に戻れば良い。
やはりと言うべきか、私は人が苦手。
隅で静かに、ただ人や日々の変化を穏やかにかわしていられたら私はそれで良いのだ。
それなのにこの馬鹿正直な性格が災いして、聞かれたことに答えてしまう。
気が付くと、私はいつもの場所に立っている。
「教祖になるしかないんなら、良い教祖になればいいじゃん」
仲良しのタロット占い師が言った言葉。
私は人が怖い。
正確には人を炭のように焼き尽くしてしまうかもしれない私自身が怖い。
私は、私の中には未だに真っ赤に熱を放つ溶岩があって。
その熱の動きが緩慢だからこそ、一見すると穏やかな人間に見られるだけ。
私は穏やかではない。
私は情熱的でもない。
熱があるとすれば怨嗟と憎悪に満ちたものだけ。
そんな自分がどこまでも忌々しい。
私は本当は人を大切にしたいし、きっと周りの人たちと同様に素直に、無邪気に人を受け入れたい。
しかし、私にはそれができない。
私の中には燃え盛る怒りと恨みがある、いつそれが人に向くかわからない。
だから、何か挟みたいのだ。
人と、私の間に。
それが心理学であったり、占いであったり、文章になる。
私はそれが悲しいのだ。
本当は生身の自分で人と接したいのに。
人の体温はいつも凍える私の心を焼いていく。
それなのに怒りや恨みだけは熱を放ち、私を内から溶かしていく。
慌ただしい毎日は私が何者なのか炙り出す。
一人でいれば分からない歪みも照らされる。
私は、私であるしかない。
どれとも噛み合わないパズルのピースを求める人などこの世にいないのだ。
打ち捨てられたパズルのピースは被害妄想を色濃くし、恨みの色に染まる。
そんな事をしても誰とも、どれとも噛み合うことなどないのに。
死ぬより生きることが辛いから赤子は泣いて生まれてくるのだ。