繋いだ手を離されるくらいであれば、最初から手を伸ばさないで欲しい。
そう思うと、目の前に希望があったとしても、それを使わない人の気持ちはとてもよくわかる。
希望が絶望へと変わっていくという経験を何度も繰り返しした人にとって希望というのは絶望の入り口なのだ。
つまり、希望というのは良いものではなく、幸福も良いものではない。
それは偶さか現れた絶望の1つの仮面であって、その仮面はいつか必ず剥ぎ取られる。
そして剥ぎ取られた仮面の下から出てくる絶望そのものに、私は何度も対面してきた。
やっぱり人生は平坦に限る。
平坦な道は安全で確かに刺激はないけれど、その分だけ安心して足を前に出せるというものだ。
刺激や浮き沈みに翻弄されてきた人間にとって刺激というのは、たとえそれが幸福なものであったとしても耐えられない苦痛へと変わっていく。
手を繋いでいる時は相手の体温を感じ、幸福を感じ、理解されているという実感に包まれる。
しかし、手を離した時にやってくるのはひとりでいた時以上の孤独なのだ。
そう思えば、相手の体温を感じる事よりも、孤独の寒さに震えていた方が、まだ私は安全なのかもしれない。
だからこそ、穏やかに孤独に生きているというのは、本当の意味で良いことなのかもしれないと私は思う。
けれども、それは本当に生きているという状態なのだろうか?
生きるということは変化を続けるということであり、刺激のない穏やかな生活を送るというのは、それは死へと向かっていると言うしかない。
穏やかな生活、穏やかな人生を求める人たちの実生活は、往々にして非常に変化の激しいものだと私は知っている。
だからこそ穏やかな生活を求める人というのは、本当には穏やかな生活を求めておらず。
むしろ日々の激しい変化に精神を耐えられるようにするために、つまりバランスを取るために穏やかさを求めているだけなのだろう。
こうやって全体像を眺めてみると人間というのは私を含めて非常に高慢な生き物なのだと自覚せざるを得ない。
ないものねだりを続けていくことが、人間が生きるということなのだろうか?