私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

富江

富江メイクというのが話題になっている事を二日前に知った。

 

何とも言えない怪しい雰囲気が気に入り、富江という映画を昨日見た。

もう20年以上前のものだからなのか効果音も演技もBGMもしなびていて、何度もあくびが出てしまった。

けれども、富江役を演じていた菅野美穂だけは別格で、やはり大女優の演技は芸術だと感動した。

 

 

富江は死ねない女であり、殺されても殺されても必ず生き返る事になっている。 

不老不死、ずっと18歳のままという設定。

アリストテレスは魂は永遠不滅のものだと考えていたらしい。

始点と終点が常に同じ形で動くもの、それが魂なのだとか。

円運動をしているものはどこで始まっても、どこで終わっても終点と始点が一致する。

だから、魂は円運動をしている、と彼は考えた。

 

輪廻という言葉があるように、円に関するものと言うのは何かしら永遠を匂わせる。

終わらないものであり、始まらないものであり、経過もなく進展も後退もない。

 

古代から人間は永遠不滅を願って来た、とされている。

特に貴族や富豪の類はそうした傾向が強いようだ。

 私のように人生や世間に対してほとんど諦観しかしていないような人間には全く分からない心理だと、これまでずっと思っていたのだが。

最近になって何となく永遠に生きたいと願って来た人達の気持ちが想像できるようになった。

 

彼らは絶望したいのだ。

 

衣食住が満たされ、欲しいものが手に入り、抱きたい女を抱き、傍若無人、放縦放埓を続ける生活の中で緩みに緩んだ精神を、何とか緊張させたい。

そこには何か絶望が必要になるのだが、彼らの生活にはそれがない。

全て満たされているから。

そこで行き着くのが永遠不滅という精神的な小児病。

決して手に入らないものを望み、手に入らない事によって絶望する。

得てして、ずっと望んでいた絶望が手に入るという算段だ。

 

なので、彼らは永遠不滅の存在になりたいと思っていたのではなく、そうなれないと分かっていて求めていただけなのだ。

本気で考えていたとしたら正気の沙汰ではない。

暇と金と力を持て余した果てに、彼らは絶望を強く求めたのだろう。

 

人生の中で絶望が消え去ったとすれば幸福だと、そう考える人は多い。

しかし、絶望が雲散霧消すれば今度はそれを渇望する。

暗い方へ、明るい方へと往復する人間の心性は遠くから見ていれば愚鈍極まりないのだろう。

それでも人は明るいものを求める。

明るさになれたら暗い方向へ歩き始める。

遠くから見れば愚かにさまよっているようにも見えるけれど、私の目に見えるのは辛酸に顔を歪め、水火の苦しみに耐え忍ぶ人の顔ばかり。

 

私も含め、きっと誰もが必死なのだ。

 

本気になって希望を求め、絶望を探している。

やっぱりこの世の中は地獄じゃないか。

満たされても絶望を欲するし、満たされなければ私のように諦観の底へ向かって沈降するしかない。

 

生まれた意味など分からないけれど。

生まれない方が良かった事だけは分かる。

 


【映画:この世界の片隅に】悲しくてやりきれない ( piano ver /cover by saya )