欠けていると思った。 例えば転んだ人を見た時に、私まで痛そうな顔をしてしまう感覚。 泣いている子供を見ると、悲しさが溢れてくる感覚。 それがないのだ。
共感という感覚の欠如。
昨日教えられたものは、それを感じる文章だったように思う。 それは強い人ならではのものでもあるし、感性を殺さなければならなかった過去を持つ人ならではでもある。
私もそうした部分がある。
共感する力の著しい欠如。 私は人の事をとてもよく見ているつもり。 そう言われる事も多い。 私は共感をしないから人の事が見れるのだ。
他者との隔絶が、私の人生を方向付けてきた。 親友も恋人も同僚も顔見知りも誰も彼も。 ただの一人として私の精神に触れる事はない。 私ですら、実は私の精神に触れることができない。
私の精神とあらゆるものの隔絶、間隙、空白。
共感しないからこそ、いや出来ないからこそ私は人を大切にできるし、理解もできるのだ。 そして、それはとてつもなく侘しいもので、人と精神の交流がないのは、精神が死んでいるとすら言って良い。 だから、私は共感力が壊死している事実を誰にも言わない。
自覚していれば私も、誰も傷付かない。
けれども、共感力の欠如に無自覚であると噛み合わない事が色々と起きる。 その理由を哲学や思想に求めたのは過去の私。 答えは目の前にあるのに、どうしてなのか人は書物や理論、空想に答えを見出だそうとする。
怖いのかもしれない。
かつての私がそうであったように。 己の歪みを直視するのが。 無意識的に自分も守ろうとする意思が歪んだ形で表現されているのだろう。
なんと言うか、そこにも人生の虚しさ、人の儚さが見て取れる。