私はいつも、どうしてこんなに怒っているのだろう?
感情的に爆発する何かがあればまだ救いがあるのに。
私の怒りは清水のように、静かに絶え間なく、ただ溢れ続ける。
怒りの裏には裏切られた期待がある。
私の怒りはどんな期待を裏切られた事から生まれたというのか。
そう考えていると、行き着くのはやはり生まれた事自体だと言わざるを得ない。
私は別に生まれたかったわけではない。
どうせ生まれるのならば鈍感で、乱暴な人間が良かった。
過剰な感受性をなぜか与えられたせいで、私は人の心がとてもよく読める。
会話や態度の節々に溢れる、言葉にされない反吐が出るような期待を誰もが持っている。
それなのに、人は、きっと私も含めて、自分が綺麗なものだと思い込みたいのだ。
悪いところはあっても、良いところもあるから±0だと。
口ばかりがけたたましく動き、仏像のように動かない人の群れを見るたびに、私の中に怨嗟の渦が生まれるのを感じる。
綺麗な事ばかり、聞こえの良い言葉のみを、まるで空腹な犬が餌食を追うように求める人。
人間が本当に考えている事は必ず行動と一致する。
喉が渇いたと言いながら、目の前に差し出された水を一向に飲まない人間は口渇などしていない。
綺麗な事ばかり口にして、行動が伴っていない人間は誑かそうとしているだけ。
人の目を欺こうとしているだけ。
汚物が綺麗な服をまとっているようなもの。
どれほど本性が見えないよう美しいもので虚飾をしても、中身が汚物では話にならない。
どうして人はこんなにも話が好きなのだろう。
何も話す事のない一日が、どれほど満たされたものなのか気付いていないのだろうか。
あれこれと夢想し、あれこれと体の良い事ばかり話し、その実何もして来ず、何もせず、何もするつもりがない。
カッコいい人間に『見える』事は意味がない、カッコいい人間『である』事が重要なのだ。
例えば私の怒りはこのようなものから生まれている。
私の生きているこの現実は本来、もっと静かで、もっと穏やかで、もっと慎ましく、もっと恭しく、風の音さえうるさく感じるものなのに。
土石流のように言葉が溢れている。
百歩譲って、本気で考え行動している人間の言葉なら良い。
しかし、現実には何もやる気がなく、口ばかりの人間が跳梁し、そうした人間の言葉ばかりが飛び交っている。
私が本来生きていられるはずの静寂な世界が、聞くに堪えない煩音で汚されている。
水墨画のように僅かな変化の中にある本当に美しいものが、次々と原色や蛍光色に塗りつぶされていくように感じる。
原色や蛍光色しか認識できない、そんな鈍り切った感性しか持たない人達によって、私の生きる世界は日々グロテスクに、日々醜悪に堕落していく。
私は何もいらないので、何も与えないで欲しい。
そもそも生まれたいなどと思っていなかったのだから。
生きている事は、私にとって苦役でしかない。
それでも生まれたからには生きるしかない。
だから、救いなんてない。