私はやはり人生そのものが壮大な喜劇にしか思えない。
働けど働けど猶我が暮らし楽にならざり
ぢっと手を見る
この詩に込められた斬鬼の念、奈落へ落ちていくしかない雰囲気。
これが人生なのだ。
これが私にとっての人生なのだ。
心理学をやっても哲学をやっても、やはり幼少期の経験、記憶というものはその後の人生に莫大な影響を与える事が分かる。
『人生は自分のもの、思い通りに理想を描き、そのようになる努力をしよう』
そんな台詞を聞くたびに、私は表情にこそ出さないが相手に対する憐みの情を堪えるのに必死になる。
自由と言えば聞こえは良いが、それは地獄の別名。
身の丈を知らない人間は既に地獄に堕ちているのだ。
手に入らないはずのものを望み、当然のようにして手に入れる事が出来ず、その当たり前な現実に対してわざわざ絶望している。
そして、まだ手に入るはずなのだと盲信し、焼け石に水の努力を続けるしかない。
私は努力を否定したいわけではないし、何をやっても無駄だと懸命な人を冷笑するつもりもない。
どちらかと言えば、私は冷笑される側にいる事の方が多いのだから。
魚は陸で生きる事は出来ず、人間は海底で自己実現などできようはずがない。
『性質』や『与えられている条件、才能』は人によって異なるのだ。
努力や意欲でどうにもできないところもある。
生まれつき勉強が苦手であったり、運動が苦手である事は悪ではない。
出来ない事、無理な事を実現可能だと思わせるところに罪がある。
そして、その罪を負うべき人間はいつも陰に隠れている。
悪事を働く人間の後ろには、常にさらなる悪人がいるものだ。
燦然と煌めく美辞麗句はいつでも私の心の表面を滑り、内奥へ入って来ない。
私はどんな言葉にも絶望や諦観、限界や臨界点を求めてしまう。
確と言葉にしてくれなくても良い。
その雰囲気を滲ませてくれるだけで良いのだ。
そうでなければ美辞麗句はいつでも地獄への標識になってしまう。
自己愛、自己憐憫、承認欲求、自分自分自分。
そんな地獄に堕ちてしまったら誰が引き上げてくれるものか。
その地獄にいる人間は自分の隣で辛労辛苦している人間を目の当たりにしながらも、自分自分自分と怨言ばかり口にしているのだから。
隣から響く断末魔より、自分のささくれの方が気になるのだから。
私は宗教に逃げるのは嫌だ。
哲学を隠れ蓑にするのも嫌だ。
賢しらに幸福を謳うのも嫌だ。
ありもしない絶望に酔うのも嫌だ。
私なんてどこにもいないのだから。
そんなものの為に、あるかどうかすら疑わしいものの為に、人が地獄へ落ちていくのを見るのも嫌なのだ。
どこへ行っても人の顔は生気を失い、朦朧としながら歩いている。
神も仏もありはしない。
天使もいないし、閻魔もいない。
鏡を見ればその全員が一人の人間として映っている。
哲学も宗教も幸福も絶望も、その程度のものなのだ。
私一人、説き伏せたり再起不能にできない絶望も神も、その程度のものなのだ。