感受性が過剰な人間にとって息苦しいのは世の常。
それは現代だからとか、変化が激しい時代だからとか、そんなものに関係しない。
過剰な感受性を持っている人間にとって、肉体を通じて得る情報や刺激は多過ぎるのだ。
コロナだなんだと世間は空騒ぎ、やれ中国の研究所から漏れただの、老人は家に引きこもれだの、若者は無責任だのと姦しいけれど。
一年経てば忘れる狂騒に明け暮れる事のいかに虚しいものか。
この世は全て虚構で出来ているのに、私たちが認識できるものは全てフィクションなのに、触れる事能わず、理解する事及ばず、手に入れる事叶わず。
人を愛する事すら出来ない、大切な人を在るがまま認識する事さえ歪んで出来ない。
そんな私たちが何かを知った気になり指弾し、何かを守ったつもりで大義名分を振りかざす。
私たちがテレビに向かって指を向け、悪人だなんだと宣うその相手はいつかの自分。
条件さえ揃えば人は必ず悪を為す。
京アニに放火した人間も、コロナウイルスを漏らした人間も、いつかの私。
その萌芽を私も、きっとあなたも持っている。
全ての出来事は我が身の事なのだ。
そうやって世界は私たちに、私たちに巣食うものが何であるのかを伝えようとする。
答えは常に目の前に差し出されているのに、愚かな私はエゴによって見る角度を固定されてしまう。
私は安全圏にいるのだ、私は放火なんてしない、私はウイルスを漏らすような人間ではない。
そう思う事で思考に間隙が生まれる、そこに私をより堕落させるものが集まり、成長していく。
気が付いた時にはもう遅い。
私は、あなたも、自分を止められなくなっている。
その時、いつかテレビに指差していた自分が脳裏に浮かぶのだ。
いつかの私が、今の私に指を差し『お前のように堕落した人間は罰せられるべきだ』と叫ぶ。
否定しようにも相手は自分。
そうやって私たちは少しずつ目を反らす、現実から、違和感を覚えるものから、考えたくないものから。
救いようがないのは、この考え方は至高の善人すらいつかの自分であるという点。
マザーテレサや大塩平八郎、ナイチンゲールのような至聖の人々の要素も、私たちが持っている。
自分を卑下し、嘲笑する事は許されない。
私たちは善人でもあるのだから。
この地獄の中で、私たちは善と悪の彼岸に立つ事は許されないのだ。
私たちは必ず此岸に居て、体液と憎悪、絶望極まる中で善人になろうと飽くなき努力をするしかない。
そうでなければ私は私が生きる事を許せない。
未遂に終わった自殺を、恨まずにはいられなくなる。
ただ静かに生きていられたのなら、それで良いのに。
私は、私の人生の中に刺激などもう欲しくはない。
それなのに今でも私の人生は幼い頃と同様、波乱の中にあり自分から五里霧中へと入ってしまう。
誰かに私の声を聴いてほしいのに、私はいつも誰かの話を聴いている。
話しても良いと言われても、言葉など出てくるはずもない。
私は諦めたのだ。
私になど誰の事も理解出来ないと悟った時、誰も私の事を理解出来ないと。
言葉は伝えようとするためのもの。
私のように諦めた人間には手の届かないところにある。
言葉はそれほど陳腐ではない、諦めた人間にその価値を与えてなどくれない。
だからこそ、一年後に忘れているであろう物事に熱中し、言葉をわざと堕落させるのが、私は許せないのだ。
言葉はそんなに安いものではない。
垂れ流して良いものではない。
自己の内奥で濾過し、純化させ、それでも真意に及ばないと分かりつつも、必死に伝えようとするものでなければならない。
理解されないと分かっていても、それでも伝えたいと思う熱情が言葉を生み出したのだ。
言葉は、生きるためのものでなければならない。
そうでなければ人が言葉を持っていることそれ自体が虚しい。
これ以上虚しい私たちというこの実存を、どうしてさらに堕落させようとするのか。
静かに己の内へと向かって響く言葉を、私たちはいつになったら思い出せるのだろう?