私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

社会は存在するのか?

私は今、叫びたいくらいの喜びを押さえるのに必死になっている。

 

というのも、今日は絶対にこのブログを更新しようと思っていたからだ。

 

最近は本業の仕事が休みになっても副業に追われている事が多く、またいつもの休みのない日常へと足を踏み入れている事が多い。

 

こうした生活は3年が限界なので、時間があるうちに何とか結果を出さなければいけないのだが、こうして好きな事を好きなように書く時間は絶対に確保したい。

 

最近、私がもう一度頭の中で整理したいと思っていた事の1つが、社会とは何か? という事だ。

 

人は誰しも社会の中で生きているけれど、そもそも社会とは何なのか?

 

結論から言えば、そんなものはこの世に存在はしないのだ。

 

つまり、世間体も社会人としての云々も、世間知らずという言葉も全ては影のように見えるけれど実態はないという事になる。

 

どうして実在しないなどと言えるのか、実在するものとしないものを明確に分けるには単純な方法がある。

 

指を指して示せるかどうか。

 

これが社会です、と指し示せるものがあるなら実在はするのだ。

 

例えばこれが飴玉です、と指し示す事は誰にでもできる、飴玉を指差せば良いだけなのだから。

 

うちわも扇風機も浴衣も全て指し示せる、それは実在するものだから。

 

では社会はどうだろう?

 

何を指差せば社会だ、と言えるのだろうか?

 

窓の外を指差しても社会はそこにない。

 

あるのは空気であり太陽であり道路であり商店であり車であり、家なのだ。

 

社会などというものは存在しないから、どこを指差したら良いのかが分からない。

 

しかし、私たちは歴然と社会を感じているし、そうしたものが実在すると思い込んで生きている。

 

社会というのは明らかにフィクションなのにもかかわらず、実在すると認識されている理念の1つなのだ。

 

ただし、このフィクションは人が生きるためにどうしても必要がある。

 

人間が蠢く場所では何かの秩序が必要になるのだ。

 

商店では金を払い品物を手に入れなければならない、苛立ちを誘う人間であっても襲ってはいけない、住みたい家があっても無断で入る事は許されない。

 

無秩序を防ぐためにはどうしても社会という想念が必要になり、人は時間を掛けてそうした認識を養ってきたのだ。

 

しかし、それはあくまでもフィクションである、という前提が必要なのだ。

 

例えば私のように芸術系の仕事をしている人間にとっての社会と、お役所で働く人間にとっての社会は明らかに異なっている。

 

社会というのはそれぞれの人間の想像の産物だという証左がまさにここにある。

 

大きく分ければ社会を構成する要素は経済、政治、文化だと言われる事がある。

 

この3つがそれぞれの集合になっていて、重なり合う部分もあれば全くどれとも重ならない部分もある。

 

母数としては経済を主体にして生きている人間が多いので、お金に関する価値観は共有されやすい。

 

しかし、文化や芸術を生業にしている人間は母数として少ないので、そうした方面で生きている人間である私のような人物は、人から理解され辛い。

 

そんな私から見た社会と、企業で働く人から見た社会というのは明らかに異なるものになるのは当然だ。

 

つまり、私から見れば彼らが世間知らずとなるし、彼らから見れば私が世間知らずとなる。

 

結局のところ私にとって都合の良いものを社会だ、価値のあるものだと喚いているだけで、社会と個人の間には相違がほとんどない。

 

個人の中にある異なる側面の相克を個人と社会に還元して考えているだけなのだ。

 

結局、人からどう見られているか? という考えそのものが自意識であるという点に気付けば、世界は己で構成されているという事が分かる。

 

個人の中にある社会的な面と個人的な面が、社会やら個人やらの問題を複雑にしているように見えるだけなのだ。

 

それでいてやはり私たちは社会の中で生きている。

 

〇〇であるべき、という思想が明に暗に私の心に重石を乗せているのだ。

 

存在しないもの、本当は私が作り出しただけの想念であるはずのものが、私の手足を縛っているというのは本当に面白い。

 

自縄自縛に陥った人間とも言えるし、だからこそ人様に迷惑を掛けずに済んでいるという事実もある。

 

もう少し広く考えていくと、歴史的な背景なども影響している事が分かるので、欧州と日本では社会そのもののイメージのされ方も異なる理由が判然とする。

 

しかし、そこに手を付けると煩雑になるので今日はここまでにしておきたい。