スマホからの更新なので短くなってしまうけれど、先日友人と話していると死に対する意識の話になった。
死について人は話すべからず、触れるべからずという雰囲気を出す。
けれど、死は死であって全ての恐怖が濃縮されたものではない。
死は死なのだ。
確かに人の死は悲しいし、やりきれない思いは私もしてきた。
しかし、人はいつか死ぬ。
死んだら二度と話せないし、会う事もできないと言うけれど、生きてる友人の中でこの先会わないまま死別する人だっている。
死んだから話せないのでなく、話そうとしなければ例え相手が生きていても話せない。
私たちは生きている誰かを死人扱いしている事もあるのだ。
ただ死という現象が、その隔絶に光を当て私たちがごまかしている部分を炙り出してしまうだけだ。
こんな話をすると冷血な人間のように思われるのかもしれないが、そうではない。
私は自殺未遂をした時、死の淵まで進んだらしい。
あと少しで私は隠世の住人になっていたのだ。
だからこそ、死ぬというこ事がどういう事なのかさわり程度は知っているのかもしれない。
死というのは世間で言われるような恐るべきものではなく、死ぬだけなのだ。
私たちが死を恐れるのは、相手を失った後も続く私たちの人生を想像しての事なのだろう。
それが悪いわけではないし、人としては当然だ。
しかし、だからと言って死がより重くなるわけでも軽くなるわけでもない。
死は死でしかない、恐怖の全てを煮詰めたものになりはしない。
ある脳科学者が脳梗塞になり、少しずつ死にゆく自分の体を助けが来るまで実感していたという本を読んだ事がある。
そこに書かれていたのは死にゆく恐ろしさでも、死へ向かう絶望感でもなく、ある種の恍惚だったのだ。
満たされた感覚の中で、その脳科学者はただ死にゆくだけなのだと感じていたらしい。
死の恐怖、絶望を産み出したのは生きている人間なのではないだろうか?
死ではなく、死体を見て判断しているのではないだろうか?
死ではなく、傷付いた己を憐れんでいるのではないだろうか?
死ではなく、死にまつわる漠然とした負のイメージに押し潰されているのではないか?
明日から仕事ラッシュなのに、私はこんな事を考えて夜更かしをさらに続けている。