結局のところ、人生というのは寸断なく連続する瞬間の事なのだ。
明日の自分がどうなるのかという事と、今の自分がどうであるのかという点は、実は繋がっていないのかもしれない。
繋がっているように感じるのは、繋がっている点を無意識的に、そして恣意的に繋ぎ合わせて考えているからであって、繋がっていない部分が如何に多いのかという事について、あまり人は考えない。
もちろん、私もその事実を念頭に置く事が少ない。
一寸先は闇の中に生きるしかない中で、未来に対する希望という名の妄想や単なる憶測に縋るのは弱い証なのだろうか?
先の事が分からなければ恐ろしくて足が踏み出せない、何をしたら良いのか分からないというのは、それほど不自然な話ではない。
だから、私たちは恐ろしい世界の中にいて、その中で安穏としていられるのはきっと、暗闇の中で目を閉じて明るい世界を思い描くからだ。
暗い世界の中であっても、明るい世界であっても、目を閉じれば光は遮断されるのだから、暗闇だろうが何だろうが、あまり関係はないのかもしれない。
静まり返る宵闇の中で無数の人が目を閉じて蠢いている姿は、形容しようがないほど恐ろしい。
そんな中である人は悟ったと言い、暗闇の中でどのようにして生きたら良いのかを、目を閉じたまま説いている。
ある人は個人の妄想によって成り立っているのが世界なのだから、自分の意のままに人生を整形する事が出来ると言う。
今の私が誰かを批判できるような立場にはないし、それぞれの信じるところを大切にして欲しいとしか言えない。
しかし、私には私の前に広がる闇がある、虚空がある。
それは私にとって非常に大切なもので、その中には苦しみも悲しみも含まれていて、私の過去はその暗闇に映写されていく。
私はその時、映写機のような役割を果たしていて、私と通過する事によって内面が映し出されるのだ。
そうやって私は私の人生を物語として創造し、私が生きた人生ではなく、私が生きたと「思っている」人生を過去と呼ぶようになる。
人生は寸断なく連続する瞬間であり、明日と今日が繋がっているわけではない。
過去が私を作りあげたのではなく、過去だと「思っているもの」が私を作って来たのだ。
そして、いつも自問自答するのは「お前は一体誰なんだ?」という言葉なのだ。
どのような説明も及ばない、どのような言葉も残響すら聞こえてこない、奥底にある何かに私の意識が向いていく。
私はなるべくしてこのような人物になって来たのだろう。
おそらく、悟りや可能性を説く人たちも、なるべくして。
最近、私は静かにしかし確実に混乱している。
そんな時には答えを知っている風な言葉が、非常に耳障りなのだ。
いつもならこんな支離滅裂な文章を人目に晒そうとは思えないけれど、こうでもしない限り全く自己の内面が整理されていかない。
「生きる事はまことに苦しく辛い。世を呪い人を呪い、それでも生きたい」ともののけ姫に出てくる村の長が言っていたのを、いつも思い出してしまう。
前段に関しては全く賛成なのだが、それでも生きたい、と私は胸を張って言えるのだろうか?
別にそう言わなければいけないわけではない。
しかし、そうでなければ私はなぜ今生きているのだろう?
私は生きたいと思っている自分を否定しながら、生きているとしか思えない。
それを隠すための厭世的な態度なのだろうか?
言葉ではなく行動こそが本心を映し出す。
それならば私は生きたいと思っているのだ、村の長と同じように。
また混乱が酷くなってきたので、少し散歩でもして来よう。