人を呪わば穴二つ。
一つは相手の墓穴であり、もう一方のものは自分が入る墓にするために必要だとされている。
人を呪わば穴二つ。
私は27歳程度まで人と世を呪いながら生きて来た。
私が抱える反吐の出るような過去を憎悪で蓋をするために必要だったのかもしれない。
濁った過去を全て塗り潰してくれる何かが必要だった。
人を呪わば穴二つ、一つは相手の為にもう一方は私の為に必要。
そう考えると私は何度自らの墓を掘ってきたのだろう?
恨みや憎しみから何も生まれないというのは嘘で、私は数える事も出来ないほどの墓穴を掘って来た。
助けたい人のほとんどを助けられず、守りたいものをことごとく壊されてきたという人生の中で、骨髄まで憎悪が沁み込んだ私の人生。
それなのに私はまだ過去を生きている。
過去が堆積したものが現在なのであれば、私は過去を生きているのだ。
あの灼け付くような痛みや怒りが私を象っている。
それなのにどうして私は人の事を、社会を嫌いになり切れないのだろう。
社会は幼い私や友人たちを見捨て、公権力は幼い私たちを見殺しにしたのに。
それなのに私は社会に対する期待を捨てきれない。
善人ぶっているのだろうか?
それならばまだ救いはある。
けれど、本心から社会や人間に対する期待を持っているのであれば、私はきっと人を呪い過ぎて地獄に堕ちたのだ。
私は、私の人生を否定し、攻撃し、侮蔑してきたものに対する愛情を捨てられない。
そうして私は無邪気にも誰かの為に、何かの為に生きていく道を歩むのかもしれない。
怨めるのであれば、どんなにか楽だろうか。
絶望に浸れるのであれば、どんなにか胸がすくだろうか。
私はこの世のどこにも希望などないのだと証明するために、ただ人生を絶望に満ちたものだと信じたいがために、満身創痍であっても希望を血眼になって探した。
そうして探した結果、どこにも希望がないのであれば私は心から安心して絶望に道が人生を送れるからだ。
しかし、希望はどんな場面でも、どんな状況でも必ず用意されている。
終ぞ私は絶望に酔い痴れる事が出来なかった。
暗く澱んだ場所から仄明るく見える希望を追い続けるのには疲れてしまったのだ。
私はただ静かに、穏やかに生きていられるのであればそれで良い。
例えそこが澱み切っている場所であっても静かであればそれで良い。
競争心を燃やし、人と戦う事に疲れてしまった。
私は誰も傷付けたくはないし、傷付いている人を見る事に辟易としている。
生きる事は辛い。
人生は暗い。
人間は惨い。
それでも誰も呪わずに生きていけたら、どんなにか楽だろう?
誰も彼も静かに愛せたら、どんなにか胸がすくだろう?
どうしてこの話は私の涙腺を刺激したのだろう?