鬼滅の刃でもよく描かれていた悪の背後にある悲しい過去。
悪は生まれつきではなく業を背負わされた人間の成れの果て。
そう思えば悪だ善だと線引きできない事がわかる。
いつかの私はタイミングを含めた運の要素に振り回され、偶さか善の方にいられただけ。
いつかの私は同じような理由で悪に分類される。
心理学を齧ればこの世が呪われていることは誰にでもわかるものだ。
例えば虐待。
殴られて育てられた子供が大人になり、いつか子を持つ。
その親は子供を殴りはするけれど、蹴り飛ばさない。
自分が受けて深い傷を負ったものを、人は他人に与える。
癒されない傷であるほどに、深い痛みであるほどにコントロールすることができない。
その事実を知った時、私は呪われた場所で生きているのだと自覚した。
救いようのない人間に囲まれていることを悲嘆していたのは生温かった。
私を含め救いようのない人間しか、この世にはいない。
誰もが誰かを呪いながら、自分と同じ痛みを与えるチャンスを探している。
これを地獄と言わずに何が地獄なのか。
私は過剰な感受性の影響で傷付きやすく、傷付く出来事の多い人生を過ごしてきた。
その中には気付いていないだけで癒されないものも多いはず。
私は出来得る限り努力をして、精神を解毒したつもりになっているけれど人生はそれほど甘くない。
私はまだ呪いを抱えながら生きている。
傷付くことは磨かれることだと、これ見よがしに話していた人がいる。
それならば傷を負った人間が癒されないまま、同じ傷を与えようと他人を足蹴にしている様は一体何なのか。
明らかに磨かれていない、小賢しい知恵と処世術を片手に堕落したこの私の姿は何なのか。
神も仏もいないのなら、私が救いを求める矛先もない。
人の世は、やはり穢土。
浄土などない、どこにも。
芸術だけが鎮痛剤。