無知の知。
これは哲学を齧った人間ならば誰でも知っている言葉。
誰もが何も知らない事だけは確かである、という切ない話だ。
しかし、生きるのならば何か決断しなければならない。
知らないからという理由で、人生は私たちに猶予など与えてくれないのだから。
私たちは何も知らない。
何も知らないからこそ、何が今の状況で正しいのか見極めるために言葉を使う。
経験を積む。
無惨に積み重なる失敗の数々の中から学び取るしかない。
正解がないから探す。
正解がないから話す。
正解がないから動く。
少しでも近づけるように、僅かでも進むために。
それにもかかわらず初めから答えがあると盲信し、特定の考えを後生大事に抱え、自分だけを慰める人もいる。
例えば人を大切にした方が良いという考えに、真っ向反対する人は多くない。
しかし、具体的にどうすることが大切にするという意味なのかは、その場面にならなければ判断できない。
相手を殺すことが愛になるケースもあるのだから。
植物人間の話、介護疲れの話ではこうしたケースを耳にする。
相手を殺してあげることが、相手を愛すること。
これは矛盾ではない。
その場に生きる当事者だけがその愛を感じられたら良いのだから。
野次馬根性丸出しの下衆が良し悪しを判断して良いことでは決してない。
私たちは何も知らないけれど、知らない中でいかに懸命になれるのかが生きるということ。
神様は私たちに生きる意味を与えてくれない。
生きる意味など教えてくれないのだ。
その中で生きて見せるのが私たちのせめてもの誠実。
都合の悪い人間を抹消しても、残るのは返り血だけ。
より愚かに、より薄汚くなった自分だけ。
そんな風にはもうなりたくないんだ。