私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

グアンタナモ

前提は言葉にされない。

 

例えば私は男である、と私は言わない。

 

私が男であることを当然の前提として生きているし、私を男として周りの人間は認識をしているのだから、言葉にして伝える必要などないのだ。

 

自分が理解し、相手から理解されてることは言葉にされない。

 

往々にして、この前提は常識や当たり前と呼ばれる。

 

そして、その前提がいかに多くのものを守り、保っているのか気付かれなくなる。

 

例えば網戸が破れたから家丸ごと取り替えようと思う人はいない。

 

網戸を理解し、家が何のためにどんな機能を果たしているのか知っているから。

 

では、社会はどうか?

 

社会は何を守り、保っているのか気付かない人間が軽はずみに社会を変えよう、新しい考えを取り入れようと喧伝する。

 

社会は生き物なのだ。

 

急激な変化は必ず拒絶反応を呼び起こす。

 

社会だってもちろん時間の経過と共に壊れていく。

 

だから、修復は必要なのだ。

 

しかし、社会全体に大きな影響をもたらす変化は、なるべく時間を掛けて穏やかに受け入れなければ、網戸が破れたから家全体を取り壊すことになりかねない。

 

変化と破壊は根本的に異なる。

 

壊すことしか能がない人間は自由だ変革だと軽率に叫び、壊してはならないものまで壊す。

 

どうしてフェンスが立てられたのか、その理由が分かるまで決して取り外してはならない、とイギリスの思想家が言った。

 

物事は重層的で、簡単に割りきれない。

 

だから、私たちは時間を掛けて話し、経験を積み、人やものを大切にする術を学び取らなければならない。

 

冷静であっても失敗ばかりする私たちが、感情的に喚き暴れて成功するはずがないのだ。

 

私はありとあらゆる熱狂が嫌いだ。

 

ありとあらゆる感情の激しい動きが、どれだけのものと人を壊してきたことか。

 

歴史を見てもその有り様は惨憺としている。

 

それなのに歴史は同じ轍を踏む。

 

戦後百年も経っていないのに、私たちはまた暴力と貧困の時代を生きている。

 

未来は過去の相似形だというのは本当らしい。

 

また私の心は重くなる。

 

さらに歴史はグロテスクに堕落する。

 

過去の教訓は決して活かされない。

 

私はそれが悲しい。