努力しなければならないと自分を急き立ててきたけれど。
それは単なる自傷行為だと知った時、私は一度死んだのだと思う。
血反吐を吐いて手に入れたものの数々が、成績や技術や知識の全てが私の肉片だった。
私はそうした虚飾のために肉を削ぎ骨を砕いた結果、もう呼吸をしていることさえ苦痛になっていた。
それなのに私は努力の体裁を整えた自傷をやめられなかったのだ。
努力しなければ、少しでも有益な人間にならなければ私に居場所などありはしない。
その思考の底流には私自身が無価値であると信じて疑わない絶望があった。
私の回復は地獄に堕ちたと自覚するところから始まった。
こんな話を思い出したのは、昔の自分にそっくりな人と話をしたから。
これから潜り抜けるであろう茨の道が、どれほど精神を磨り潰すのだろう。
自分を抱き締めるまでに至るまで回復せず、立ち往生する人がいかに多いのか、私は少しだけ知っている。
優しい人にばかり悲しみが降り注ぐのはどうしてなのか。
苦労が人間性を磨くとは言うけれど、この不条理を呪わずにいられない。
神は耐えられない試練を与えないと言うけれど、耐えられない試練を与えられた人間は生きていないだけ。
生きることがどれほどの辛酸と懊悩に満ちているか。
私はただ見守るしかない。
私はただ寄り添うことしかできない。
怨嗟の声に、喪失の嘆きに、激痛の悲鳴に。
どうか明日は良い日でありますようにと。
苦しみにせめて終わりの兆しが見えますようにと。
日頃、呪う対象でしかない神仏に祈るしかない。