最近、大晦日のような雰囲気が流れている日が多いように感じる。
水底に沈んでいるような、どこまでも静かで弛緩した空気。
たまには知っている車の音もどことなく間延びして、気だるそうに響いている。
大晦日の退廃的な、緩み切った空気がとても好きなのだけれど、こう頻繁に感じられるようになってしまうとありがたみが薄れていく。
まるで廃人の精神がそのまま空気になったかのような、あのどこまでも厭世的で掴みどころのない雰囲気を、どうしてここまで好きになってしまうのだろう。
フロイトは人間の中に生を渇望する心理と同様に、死を望む本能があるのだと唱えた事を思い出す。
強く生を望めば望むほど、その分だけ死を望む思いが強まっていく。
作用に対する反作用と同じように。
つまり、強く死を望むという事はそれだけ生に執着していると言えるのだ、少なくともフロイト的に言えば。
闘病時代を思い出してみると、確かにそう思えなくもない記憶がいくつかある。
こういう風に過ごしたいという思いが強過ぎて、そして、その思いや理想は常に打ち砕かれて、その結果として絶望していたような面がある。
強くならなければいけないし、賢くなければならない。
社会や人に資する人間でなければならないし、能力は常に磨かなければならない。
人に出来ない事が出来るからこそ存在価値があり、そうでなければただのガラクタなのだと思っていた。
こういう風に生きたい、過ごしたいというのは間違いなく生に対する肯定的な心理であり、希死念慮とは対極にあるものだ。
そういう風にして過去を振り返ると、生と死の両方を強く望む心理によって散り散りになった精神が、悲鳴を上げていた過去のようにも思える。
不思議なものだ。
当時は全く思わなかったけれど、パリピのように過ごしていれば少しは息抜きも出来たのかもしれない。
学生時代、周囲にはパリピが多かった。
私はそういう奴らを毛嫌いして軽蔑していた。
何人とヤッただの、どの学部のどの子が可愛いだの、そういう話を耳にするだけで辟易としていたけれど、そこまで開き直る事が出来た方が楽だったのかもしれない。
生と死について考えるなんて、時間の無駄のようにも思えるし、目の前の快楽に溺れてしまった方が楽しい事もある。
楽しい事を考えて過ごさなきゃ、人生が無駄になってしまうと言う人もいる。
おそらく、そう言って私を懊悩から救い出そうとしてくれているのだろう。
暗い世界だけではないよと、そう言ってくれているのだろう。
傍から見れば苦しんでいるように見えるのかもしれないけれど、私は全く辛い思いなどしていない。
PTSDは完治した、フラッシュバックもなくなったし、残っているのは小学生の頃から続いている不眠だけ。
しかも、その不眠だってほぼ治りかけている。
私が暗い世界を見るのが好きなのは、私がその部分でしか生きられない人間だからであって、その部分をしっかりと見る事によって助けられる人がいるからだ。
決して自暴自棄になっているわけではない。
明るい世界は楽しいだろう、と思う。
しかし、行きたいとは全く思わない。
楽しいだろうけれど、私がその部分で生きようとすれば必ず摩擦が起きる、精神が消耗する。
楽しまなければいけないという圧力が、きっと私を融解させるだろう。
明るい場所に立たされると、私の中に眠っている怒りが目を覚ます事があるのだ。
なぜかそういう場所で生きている人たちは、他人の心に躊躇なく踏み込んでくる。
私は半強制的に生い立ちやら仕事やら、趣味について話さなければならない。
そういう普通の事が、私には出来ない。
話せば重過ぎる、出したところで誰も触れられない。
暗い場所で生きる人たちは、どこか似たようなところがあって、通常であれば驚かれたり忌避されるような話をしても、受け止めようとはしてくれる。
私も受け止めようとする。
静かで暗く、一般的に言われているような類の救いが何もない、そんな関係が心地良いのだ。
「死なない、ただそれだけのために命を削らなければならなかった」という言葉を、実感と共に聴いてくれる仲間は、暗い場所に大勢いる。
明るい場所にいる人たちのほとんどは、そういう経験を自己宣伝に使ってしまうのだ。
こんな経験をしても頑張っている今の自分、という形で話を持っていく。
発泡スチロールのように軽く、それでいて見た目上の大きさだけは十分にある賞賛を受けて、承認欲求を満たしている姿を見ると、まだマツコDXのM字開脚を見た方がマシな気持ちになってしまう。
とりとめもなく話をしてしまったけれど、最近はそんな事をよく思う。