今日は日課にしているジョギングをした。
川沿いのランニングコースは小高い作りになっていて、空を遮るものが何もない。
強いて言えば、山が影絵のように夜空を所々真っ黒に染めているくらい。
5歳の頃から24歳まで格闘系の運動をしていたので、私はかなり運動が好きな方。
こんなブログを書いている人間には、あまり見えないのだろう。
私は哲学が好きだ。
特に論理学の付近はとても好き。
言葉が好きなのだ。
論理学が好きだと言っている人間のほとんどは面倒な屁理屈野郎ばかりなので、個人的には近付きたくないけれど。
論理学の何が良いかと言えば、ごまかしが一切通用しないところ。
例えば社会、例えば愛情、例えば過去、未来、現在。
そのどれもが存在しないもの、概念上「あると考えられている」だけのもの。
だから、そのどれも指差す事が出来ない、存在しないものだから。
社会は実在すると言った人たちに「だったら指し示して欲しい」と決まり文句のように言っている。
ある人は建物を指し、ある人は地面を指し、ある人は人の群れを指差していた。
それは社会ではなく建物であり、アスファルトであり、人の群れ。
「社会」は存在するという前提でなければ、複数の人間が安心して暮らす事がままならないので「あるとされている」だけで、実際にはどこにもありはしない。
もっと言えば建物だって地面だって存在しない。
それは木材やコンクリートであり云々と分解していけば原子にまで辿り着く。
あるものというのはそれだけ。
この世にあるものなんて、OだのCだのHだのそんなものばかり。
そう思う事で私は精神の疼痛を麻痺させてきた。
存在しないはずのものに苦しむはずがないのだと。
しかし、そうした虚しい苦労は痛みを波紋のように私のうちに響かせるだけだった。
きっと私は絶望に浸っているように見せて、何かを渇望しているのだろう。
満たされない渇きが、幼少期から続く痛みの正体なのだ。
私は特に病んでいるわけではないから病院も薬も必要としていない。
何かの病だとも思わない。
私は苦しんでいるのが通常の状態なのだ。
そうした場所での過ごし方も心得ている。
だからこそ、明るい場所へ連れて行こうとする人達に辟易とする。
彼らにとって明るい場所はとても良いところなのだろう。
しかし、私にとって明るい場所は苦痛でしかないのだ。
見えないから、聞こえないから、感じられないから耐えられるものがある。
明るい場所は全てをまざまざと私に見せ、聞かせ、感じさせる。
自分自身の手足が捥がれ、顔が歪に変形している事を誰が知りたがるだろう。
見えないから自分に耐えられる人間もいるのだ。
それはごまかしているだけだと心理学は言う。
そんな自分を受け入れよ、ありのままを自己を肯定せよ、と。
たまったものでない、というのが私の意見。
人間は誰しもが自分をごまかしているじゃないか。
存在しない社会の中に根を下ろしたつもりで、他人の一挙手一投足を誤解し愛情を受けた気になり、都合の良い自己を認識し耽溺しているじゃないか。
理解出来ない人間もいるんだという現実を受け入れていないのは私ではないのだ。
人生の中に差す光などたかが知れている。
明るい場所で披瀝されるものは大抵が虚飾されたもの、虚構の中にあるもの。
人は美しい嘘の中で生きていたいだけなのだ。
私はそれを認めるし、受け入れる。
人は美しい嘘の中で生きていたいだけだという現実を受け入れる。
だから、私の事も受け入れてはくれないだろうか?
受け入れて欲しくない人間もいる、という事を受け入れて欲しい。
私が求めているのは美辞麗句や巧言令色ではない。
唯物論的なモノではない。
肉体関係ではない。
ただ隣に腰を下ろし、黙って同じ景色を見てくれるだけで良いのだ。
願わくば「人生は地獄だね」と傍で笑って欲しい。