私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

怨恨

結局のところ、人は自分のやりたいことしかやらないものだ。

 

あれやこれやと小賢しい理屈を並べ立てても、突き詰めればやりたいことをやるために正当化しているだけ。

 

それが悪いとは思わないし、そうやって心健やかに過ごせるのならば、それはそれでアリ。

 

だが、やりたいことしか人間はやらないものだと忘れると危険。

 

人のため、誰かのため、何かのために云々と恩着せがましい理屈を並べた割に、自分のやりたいことしかしていない事実に目を瞑るから。

 

重要なのは事実と願望を区別すること。

 

たとえば、吊り橋のロープを切れば橋の上にいる人間の命が危うい。

 

だから、ロープを切ってはいけない。

 

これは切りたいから、切りたくないからという願望と無関係で、吊り橋はロープによって支えられている事実から自然に出てくる結論。

 

ここを履き違えるとロープを切るのも、切らないのも人の好みで決めて良いと誤解してしまう。

 

橋の上に人がいるのに。

 

その橋をこれからも必要とする人がいるのに。

 

こうやって世の中は綻び、腐り、溶けてきた。

 

近代以降の哲学も心理学も経済学も政治学も宗教でさえもが悪臭を放っているのは、事実を願望にすり替え、人間の小賢しさを礼賛し、ただでさえ間違う人間を絶対のものとして扱ってきたから。

 

己の利益最大化のために行動を起こす所謂「経済人」など存在しない。

 

イスラム教徒は豚肉を食べないのだから、豚肉をいくら安く売っても買うはずがない。

 

経済はこのようにして文化や宗教からも強く影響される。

 

産業革命以後、ダーウィンの進化論がキリスト教社会に受け入れられたのは産業の機械化で目まぐるしく世の中が変貌していったからだ。

 

神に似せて人間を作ったのならば人間が進化などするはずがないのに、産業の発展は時として人の宗教観すら駆逐する。

 

経済も信仰も政治も文化も、恋愛も家族も個人も仕事も、ありとあらゆるものはたった1つのものの異なる側面なのだ。

 

切り分けて考えることは、本来はできないもの。

 

冒頭の願望と事実の区別も、実は同じものの異なる側面。

 

しかし、同質ではない。

 

肝臓と腎臓が異なる臓器のように、人間を構成する全体の一部であっても同質ではないのだ。

 

それらを総合して人間となるし、肝臓が欠けても腎臓が欠けても人間は機能しなくなる。

 

命とは、そういうもの。

 

生とは、まさに現象のことなのだ。

 

それが分からない連中がひよこをミキサーに掛ける前と後で何も変わらないと言う。

 

確かに物質として何かが失われたわけではなくても、確かにひよこの命が失われている。

 

物質しか信頼しない世界はここまで堕落する。

 

命とは、生きるということは様々なものや人が有機的に結び付き生み出すその場にしか存在しない現象なのだと理解できなくなる。

 

人の手を握った時に感じる温もり、打ちひしがれている時に掛けられる励ましの言葉、あからさまな敵意。

 

それらを向けられた時の情動こそが生であり、生きているからこそ心が動かされるのだ。

 

冒頭に出した事実と願望を敢えてない交ぜにする人たちは人をもののように考えている。

 

理性と呼べば響きは良いけれど、単に妄想をそれらしく話している詐欺師の類い。

 

私は彼らが憎い。

 

あるべき調和がすでにあるのに、敢えて壊そうとする彼らが。

 

穏やかに暮らすことを許さない彼らが。

 

ひよこをミキサーに掛ける前と後の違いが分からないと嘯く彼らが。