過去と言うにはまだ生々しすぎるくらい前の事。
私は20代で血眼になって古代から現代までの哲学書を読み漁っていた。
PTSDから解放され、私は幼い頃から付きまとう不愉快な何かが病のせいではない事を自覚した。
誰かの吐息を首筋に常時掛けられているような不快感。
発狂するほどではないにせよ、無視する事の難しい苛立ち。
きっと私の抱える不快感は何か「真実」を見付ければ消え失せるのだと考えていた。
幼い頃からどうしてなのか人の嘘を見抜く事がうまかった私にとって、嘘ほど痛憤を誘うものはなかったのだ。
何でも良い、どんなものでも良いから「真実」が知りたかった。
プラトンもアリストテレスも孟子も荀子も、マザー・テレサの言葉まで読み漁ったにもかかわらず、私を満足させてくれるものはどこにもなかったのだ。
そこで私は気付いた。
自分の目を自分の目で見る事が出来ない事に。
右手の人差し指の爪で、右手の人差し指の爪を触れられない事に。
見るものは見れない。
触れるものは触れられない。
そのように人間が出来ているのであれば、感じる器官である心など感じられるはずがない。
真実であればあるほどに感じられないようになっているのだ。
私が幼い頃から苦しんできたのは、まさに「私が私である」から。
最も理解したい、最も感じたい「私」を「私」であるがゆえに知覚できない。
ずっと待ち望んでいるプレゼントの箱を開ける事が許されないような、そんな思いがする。
幼い頃、きっと人は誰しもそうした気持ちを持っているのだろう。
しかし、年を経るごとにそうした思いが色褪せて、例えば異性や物、名誉などに関心が移る。
それなのに私はいつまでも「私」を探している。
闇鍋だ。
私が普段から蔑視している人間の多くは例えば私のように掴みどころのない、何を考えているのか分かり辛い人間にレッテルをよく貼る。
大抵、そうしたレッテルはことごとく間違っているのだけれど。
例えば冷淡。
私は冷淡な人物ではないのに、そう評価される事がある。
そして、レッテルを貼った人物は安心する。
そうした人物を私は日頃から蔑視しているけれど、気持ちが分からないではないのだ。
「すき焼きですよ」と言われたら安心して食べられる。
しかし、たとえ中身が同じでも「闇鍋ですよ」と暗闇で出されたら同じように食べられる人間など多くないはず。
肉が人間の横隔膜のように思えるかもしれない。
卵のとろみは体液を思わせるかもしれない。
味は何も変わらなかったとしても。
私にとって「私」はまさに闇鍋だ。
分からないから気になる。
どれだけ気になっても分からない。
私は普段蔑視している人間と同じ事をしていたのだ。
つまり、同族嫌悪をしていたという事。
愚鈍だと人を見下す愚鈍な人間が「私」の一部である事は間違いない。