瞳の色を暗くする方法。
そんな事を検索していた時期が、10代の頃にあった。
もちろん、そんな方法はないのだけれど私にとってはとても重要な問題だったのだ。
私の瞳は普通の人よりもかなり明るい茶色。
そのせいで世界が人よりも明るく見えているのだと、眼科医に言われた事があった。
私は幼い頃から明るい場所が苦手であり、日陰ばかり好んでいる。
それは私の暗く、澱んだ性格から来ている習性なのだと思っていたけれど、もしかしたら瞳のせいかもしれない。
私は瞳の色が変わる事で、世界の明度が低くなる事で、自分が本来いるべきところへ変えれるような気がしていたのだ。
何かの間違いで私は世界が明るく見えているだけなのだと。
明るいものは明るい人が持てば良い。
私のように明るいものや喧噪、刺激に辟易としている人間は真っ黒の瞳でなければいけない。
そう思うと、私の目は私が私らしくあろうとするのを遮る障害にすら感じられた。
終ぞ瞳を暗くする方法は見付からず、私は30歳を超えてしまった。
幼い頃から私が本来見るはずの暗い世界は、死ぬまで拝めないらしい。
何の皮肉なのだろう。
私の人生には手に入らないものばかりが転がっていて、余計なものばかり持っている。
その余計なものは例えば瞳のように、手放せない性質のもの。
不必要なのに手放す事が出来ない、愛着すら湧かないものばかり持って生きているのが私。
厭世的になるのも当然なのかもしれない。
私のように神経質で、過剰な感受性を持っている人間に明るい世界は辛過ぎる。
見え過ぎてしまうのだ。
怒りを噛み殺す口元の震え、嘘を吐いている人間特有の微かな表情筋の痙攣、苛立つ指の動き、悲しみに暮れる瞳の揺れ、承認欲求を横溢させる目の開き具合、黙って苦痛に耐える眉間の皴、恥ずかしさを押し殺すアゴの力み。
こんなもの、私は何一つとして知りたくはなかった。
見たくなくても見えてしまうのは、きっと世界が明るいからだ。
瞳が人よりも明るい茶色だからだ。
私は何も知りたくないし、気付きたくもない。
何が起きても凪のように、静寂の只中に居たい。
心の機微に触れるのは、もう嫌だ。
全部この目が悪い
。