今日は武蔵野線で埼玉まで移動している。
いつもは都心へ行く事が多く、目的地に近づくほど人が多くなる。
しかし、埼玉へ向かう武蔵野線のように都心から離れていく路線は最初から人が少ない。
駅に止まって濁流のように人が車内に雪崩れ込む事もない。
ただ緩やかに、ただ穏やかに人が乗り降りし長閑な時間が流れている。
私の本籍地は富士山の麓なのだが、そこへ向かう時の電車も静かで人が多くない。
だから、どれほど電車に揺られても気持ちがささくれ立つ事はなく、自分が電車の一部にでもなったかのように自然体でいられる。
そんな時間が本当に好きなのだ。
電車はいつでも私を苛立たせるけれど、実は電車に問題があったのではなく人の影響だったらしい。
こんな風に穏やかに、静かな車内なら毎日電車に乗っていたいくらいだ。
さて、今は埼玉からの帰り道でまた武蔵野線に乗っている。
帰りは行きとは異なり人の数が多いけれど、東所沢を過ぎた辺りで人がグンと減った。
疲れている時は鬼束ちひろが心に染みる。
今何となく思い出したけれど土曜日にジョギングをした時、空は完全に秋の寂寥を帯びていた。
夕暮れを過ぎた直後の空は重みのある紺へ向かっていて、そこを刷毛で掃いたような雲が広がっていた。
しかし、地上はまだ蒸していて秋とは裏腹の肌に張り付く不快な気温に包まれていたのだ。
空は秋、地上は夏。
この何とも言えないアンバランス、視覚と触覚の不釣り合い。
そう言えば雷もそうだ。
最初に光が視覚に届き、音は時間差でやってくる。
何かを知覚するのは視覚が最も早いのかもしれない。
私の愛するショーペンハウアーという哲学者は視覚こそ純粋で、最も尊い感覚だと力説していたのを思い出す。
視覚はごまかせない、素早く全てを見抜く。
その後にやってくる音は既に印象の付いた映像や場面の説明のようにも思える。
言い訳が虚しく響くのは、こうした事が関係しているのかもしれない。
人は何かを見た瞬間に思い込む、見たまま記憶するのではなく見たいように見る。
何かを見た刹那にストーリーが生まれ、それは強力な思い込みへ変わる。
後から説明されても人は自分の価値観と合わない言葉など受け入れない。
受け入れた振りをして聞き流してしまう。
音も映像も全て同じタイミングで知覚すれば、こんな虚しい誤解の渦に巻き込まれずに済むのだろう。
しかし、この絶妙なズレが人を苦難へ誘うのだろうし、そこに芸術が生まれる余地もできるのかもしれない。
全ての不調和は、より大きなものの調和だというポエマーの言葉が脳裏を過ったところで乗り換えの駅に着いた。