『憑き物が落ちた』
そう思った瞬間、涙を流す事など滅多にない私の視界が滲んだ。
自宅の傍には川がある。
とても大きく、都内に住んでいる人であれば誰もが知っている川だ。
暮れなずんでいる空は底がオレンジ色で、それを追いかけるように濃紺が迫っていた。
静かに流れていく水。
川の上を通る電車、橋の傍では灯りを焚いたクレーン車が工事をしていた。
私はあと一歩前に出れば川に入る位置に座り、空と橋とクレーン車を眺めながら『憑き物が落ちた』と気付く。
やおら、風が私を撫でた。
サルエルパンツの繊維を潜り、素肌の上を風がなぞっていく。
何が憑いていたのかなんて知らない。
ただ私の中に蜷局を巻いていた、粘着質で熱と悪臭を放つ何かが風に運ばれ空気に溶けた事だけは分かった。
私は初めて呼吸でもしたかのように、ゆっくりと息を吸って肺の奥底まで空気を充満させる。
細胞に空気が染みわたっていく、求めていたものが血液に乗って運ばれていく。
起きた事は川岸に腰かけ、ただ風に吹かれたというだけなのに、私は涙を零しそうなほどの安心感に包まれていた。
『今日が一生だね』
人はある瞬間を味わう為に生まれるのだ、と聞いた事がある。
今日を味わう為に生まれて来た、と思えるような日が一生分の価値を持つと考える人もいるらしい。
私にとって今日はそう言っても良いくらいの日で、ただ風に吹かれただけなのに私の陰惨な過去も、過剰な感受性に翻弄される日々も、森羅万象へ向け恨み骨髄に達している今の私も、何もかもが空気に溶けたのを、確かに私は感じた。
もちろん、その瞬間は矢庭に過ぎ去り、今はいつもの私なのだけれど。
私はクリスチャンではないので西洋の事はあまり分からないけれど、天使が傍に来て何かするとそのような高揚感、恍惚感に包まれると教えてくれた人がいた。
あの時の解放感は何だったのだろう?
私は、一体何と出会ったのだろう?