今、私が好んでみている海外のテレビ番組の登場人物は決まり文句としてこう言う。
「自分を愛せない人間は、他人も愛する事もできないでしょ?」
この言葉、私はこの年齢になるまで嫌になるほど耳にしてきた。
自己愛についてはおそらく乏しいタイプの私としては、その言葉がとても嫌な響きとなって心に反響していたのだ。
自分を愛する事と、他人を愛する事は殺す事と殺されるくらいの違いがあると思っていた。
けれど、最近になって何となくこの意味が分かってきたような気がするのだ。
人は自分の鏡として他人を見ている。
自分が考えるように相手も考え、自分が感じるように相手も感じているのだという思い込みの中で、誰もが生きている。
私や私の親しくしている友人たちのように、明らかな自他の隔絶を経験してきた人間はそのような思い込みを打ち砕かれてきた。
だからこそ、自分と他人が同じように考え、感じるとは思わない。
それは己の力を頼んで生きるには適していても、社会人として集団や組織の中で生きるには不適格。
私はそれで良いと思っているし、社会に迎合したくても出来ないのなら諦めるしかないとも感じる。
脱線してしまったけれど、人が自分の鏡として他人を見ているのならば、自分を愛せないのなら他人も愛せないという理屈は成り立つ。
自分が不幸な人間だと思い込む事も、自分と相手が同じように考えると浅慮する事も、その根底には自己愛がある。
自分に対する集中力、執着心が自己愛なのだ。
だから、自己愛の薄い人間は人の為に彼是と動く事をそれほど厭わない。
だから、自己愛の強い人間は自分の不幸や幸福に対して並々ならぬ執着を持つ。
どちらでも良いのだろう、生きやすいのであれば。
私は正直、自分自身について自己愛が強いとも感じるし弱いようにも思える。
どちらでも良いのだ。
私は私の感覚を通じて感じる事を大切にしたい。
それだけが私に生の実感を与えてくれるものなのだ。
例えば忘れられないほど美しい夕焼けや、肺に染み込む冬の空気、静かに流れる川の音。
そんなものが私に幸福感をこれ以上ないくらい与えてくれる。
気心の知れた仲間と話をしている時もそうだ。
そんな人は数えるくらいしかいないけれど。
ある小説の中で青年が戦争へ行く事になった場面がある。
そして、青年と恋に落ちている少女は出征する前夜、2人で過ごす事を親から許される。
そこで少女の親戚の一人がこう言う。
「あの子にとって今晩が一生だね……」
少女はその夜の思い出を一生抱え、何よりも大切にしながら青年が死んだ世界で生きていくのだ。
人生というのはある瞬間を味わう為に存在する、と私は思っている。
この瞬間の為に生きてきたのだと思える、そんな瞬間に出会う為に。
それは劇的な場面なのかもしれないし、ある程度の期間を持つ日常的な光景かもしれない。
そんな場面に出会ったのなら見落とす事なく、私はそこに没入したい。
運命の瞬間はあの時だったのだと、後になってから気付くほど熱中したい。
もうすでにそうした思い出はいくつかあるけれど、これから増えていくのだろうか?
どれだけ骨を折られても強さを求めていた時期。
才能を認められ有頂天になっていた時期。
血眼になって読書に明け暮れた時期。
PTSDに苦しんだ時期。
厭世的な生き方を続け、退廃的なものに現実逃避していた時期。
そのどれもが今の私を象っている大切な記憶であり、経験なのだ。
私にとって「一生だね」と言える日は、いつだったのだろう?
どれも思い出したくない記憶ばかり。
私にとっての「一生」となる日は、どれも懊悩に包まれている。