私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

原色ばかりが許されるのは水野しずだけ

昨日、ようやく9連勤が終わり、こうして穏やかにブログを更新できる余裕が手に入った。

しかし、こうやって溢れるようにして言葉が出てくるというのは、精神的にはとても良い事なのだが身体的にはあまり良いとは言えない。

限界が近い時、私はこうして自分の言葉を吐き出す癖がある。

それだけ9連勤が堪えたという事なのだろう。

 

そう思うと私は、私の人生は言葉によって支えられ救われ、摩耗しひび割れを起こしてきた。

言葉というのはそれだけ私にとって重要な価値を持つものなのだ。

こうしてブログばかり更新していると、よほどおしゃべりな引き籠りが文章を書いているように見えるかもしれないけれど、実際に私はそれほど話さない。

話したい事は山のようにある。

けれど、殊に自分自身に関する話についてはほとんど口に出さない。

このブログでは珍しく私は私の話ばかり横溢させている。

 

口から放った言葉は誰かに受け取られない時、僅かに空中をたゆたい朽ちていく。

だから、私は文章が好きなのだろう。

私の言葉は人に届かない事が多い、大切にしている私の言葉が脆くも散っていく様を見るのはもうたくさんなのだ。

私は身近な人間のゴシップや誰かの自慢話、誇大妄想に全く関心がない。

その反面、なぜ私たちが生きているのか、どうして私は私なのか、死や生、愛や憎悪、悲嘆や歓喜等々、幼い頃から気になって仕方のない事に心を奪われたままでいる。

心の底から湧き上がるあの激情、普段自己だと思っているものを容易く打ち砕くあの現象が気になって仕方ないのだ。

 

何かを真剣にやっている人間であれば、必ず辿り着くあの風景、それが私を魅了してやまない。

他人のゴシップなどに付き合っている暇はないのだ、私が生きている間しか、この体が動く間しか考える時間は与えられていないのだから。

 

考えるというの頭の中の妄想を膨らませる事ではない。

そこには必ず身体性が伴う。

怒れば目に力が入り緊張すれば体が震え喜べば破顔するように、精神と身体は切り離せない関係にある。

当然、考えるというのも身体性を伴うものなのだ。

 

では、考える時に必要な身体性とは何か?

それが経験と言われているもので、経験値はありとあらゆる妄想を溶解させる。

現実は脳内のような無菌室ではなく、雑菌塗れのおぞましいものなのだと教えてくれる。

賢しらに知識を振り回し妄想を虚飾してみたところで、無菌室から出ればそんなものは通用しない。

私はそれがとても楽しいし、それに打ちのめされてきた。

能わない、及ばないという言葉が異常に好きなのも、おそらくこうした経験から来るのだろう。

 

言葉は烙印なのだ。

例えば旅行へ行く。

美しい自然の風景を見たとする。

そして、それを人に話す、美しい風景を見た、と。

そうなるとその思い出は「美しいもの」という烙印を言葉によって押されるのだ。

次、その話をする時にはその烙印はより濃いものへと変化する。

何度も何度も烙印を押すうちに「美しいもの」という部分しか見えなくなる。

 

その美しい風景を見るまでに歩き疲れたとか、一緒に行った相手は自然よりも建物を見たがっていて苛立ったとか、そうした僅かに、しかし確かに感じた淡いものを烙印が消してしまう。

そんな事はなかったとでも言うように、烙印ばかりが強調されるのだ。

色で言えば原色しかない絵のようなもので異様に煌びやかで、過剰に自己主張し、無用にけたたましい、そんな雰囲気。

そして、いずれは原色塗れのチカチカとした想い出ばかりになる。

 

言葉はそうやって私から大切な記憶を奪っていく、私の感動を原色で塗りつぶしてしまう。

そこに経験が滲むと原色と原色の間を美しく調和させる淡い色味が炙り出されていくのだ。

つまり、経験とは言葉に対する中和、無菌室ではなく精神に対して菌を適度に植え付けてくれるのである。

善玉菌を飼っていれば便秘にもならないと私の使っているヨーグルトメーカーを販売している企業が宣伝していたし、精神にもそうしたものが必要なのだ。

 

私は幼い頃から調和、平衡、均衡、バランスにこだわって生きて来た。

私は天邪鬼なのではなく調和が崩される事を嫌っているだけなのだ。

どこかに偏れば、どこかで必ず歪が生まれる。

その歪が目立たないものであれば存在しないものとして扱われる。

「世間」や「普通」からはみ出たものは、存在しないものへと淪落する。

家庭内で起きる悲劇も、泣き寝入りするしかない犯罪の被害者も、存在などしないかのように扱われるのだ。

その涙も苦痛も痛みも、何もかもを抱えていながらそんなものは存在しないのだと自己暗示を掛ける道しか「社会」の中で居場所を作れなくなる。

 

だから、私は「社会」の中になど居場所は欲しくないし、それならば自分で自分の居場所を、確固たる自分の存在を知らしめようと思ったのかもしれない。

自覚はないけれど。

 

私が関わっている東洋医学も武道も伝統芸能も心理学も哲学も何もかも、その最高の場所に位置するのは調和。

西洋の頂点に唯一神が鎮座するように、東洋の頂点には古来から調和が腰を下ろしている。

それを自然や宇宙と形容しているだけの話。

宇宙なんて本当は心の中にしかないのに。