そのあまりの悲しさに、という言葉を聞いた。
そのあまりの悲しさに。
この言葉、なぜなのか私の頭の中にずっと響いている。
きっと共鳴する何かが私の中にあるのだろうけれど、その何かが私には分からない。
共感覚という言葉がある。
音を聞いたら色が見えて来る、というように感覚が繋がっているタイプの人の事。
私は実は少しだけその感覚を持っている。
面倒だから捨ててしまいたいし、共感覚を持っていると公言するほど明確に持っているわけでもない。
指先に引っかかっているタバコの入ったビニール袋くらい。
すぐにでも手から落ちそうだけど、今は引っかかっている。
そのくらい心許ないものなので持っていると言う事すら憚られる。
そのあまりの悲しさに、という言葉や感覚、言葉から漂ってくるのは深い青。
私はこの感覚、色味がとても好きなのだ。
美しく清廉で、触れる事すら躊躇う純真な色。
この雰囲気を持っている人も好きだし、この色味を出せる人は限られている。
だから、「そのあまりの悲しさ」を味わった人とは仲良くなれる事が多い。
きっと私もその色を出しているのだろう。
救いようがない出来事に対して救いようがないと諦め、静観する事を決めるときっとこの色に近いものが出て来る。
そこに現状を打開しようという情熱があってはいけない。
情熱があるとすれば、灰になったものだけ。
救いようのない現実に対して何とか抵抗しようと試み、結果として燃え尽きた情熱の灰だけ。
美しいものはどうして悲しいのだろう?
希望や期待に満ちたものは私の精神を逆なでするだけなのに、悲しいものはそうではない。
静かにジンワリと内奥へと広がっていく。
水の入ったグラスにティッシュの角を着けているみたいに。
結局のところ、私は情熱的なものが嫌いなだけなのかもしれない。
意気消沈している自分と似ているものや人を見付けて、自己憐憫に浸っているだけなのかも。
そうでもしなければ生きる事は辛い。
少しずつ酸素の薄くなっている部屋に閉じ込められているかのように、私の心は死んでしまう。
美しいものを手に入れなくても良い。
自分のものにしたいわけではない。
本当に美しいものがあるという事さえ分かれば、それだけで私は救われる。