最近、また良い洋画の俳優を見付けてしまった。
トム・ハーディというイギリスの俳優だ。
リーアム・ニーソンもそうだけれど、暗い内面が隠しきれない人が好きなのだ。
トム・ハーディはいつでも憂愁を漂わせる役柄を演じているし、どこか報われない雰囲気が強く出ている。
これは絶対演技だけではないと思い調べてみると、過去にアルコールとコカイン中毒になっていたようだ。
二十歳を過ぎれば内面が顔立ちに表れるとはよく言ったもので、やはりその人の過去は顔付きになって出てくるのだろう。
そう思うと私は自分の顔を見るのが嫌になる。
今の私は昔と比較すれば非常に健康的で、不自由な思いをする事も少なくなってきた。
しかし、私の過去はそうではない。
私の顔付きはそうではないのだ。
ちゃんと人の顔を見て話す人が見れば、私の内面にも気付くだろう。
私は自分の顔を見るたびに嘆息を吐いてしまう。
私の顔には苦渋が染み込んでいる、目はいつも光を鈍く反射させているのだ。
不思議な事にカウンセラーの養成講座に集まっている人の中には、家庭環境が壮絶だった人が多い。
私の家に似ている環境で育った人が2人もいる。
その2人の顔付きを見ていると、やはりそうかと言いたくなるのだ。
幸福を拒絶しているあの表情、ふとした時に見せるニーチェが言った深淵を覗いているかのような目付き。
まるで私を見ているような気持ちにさせられる。
決して幸福に対して激しい抵抗をしているわけではない。
幸福などこの世にないのだと何度も繰り返し味わってきた力のない絶望感、諦念がその表情に、目付きに表れているのだ。
2人のそうした表情を見るたびに「そうか……」と思う。
そうか、と。
これ以上ないほどに絶望してきた人を前にして、私はいつも「そうか」と思う。
この人の人生はこの表情を生み出すほどの艱難辛苦に満ちていたのか……と。
あの2人はそれほど匂わせないけれど、きっと何度も死にたくなった事があるのだろう。
あの表情には覆い隠せない絶望感が漂っている。
あの表情には受け止めきれない悲しみが滲んでいる。
私はあの2人をとても好きなのだけれど、会うたびに胸が締め付けられるような気持ちになってしまう。
人生とは何だろうか?
命とは何だろう?
生は間違いなく暴力と同じ構造で私たちに降り掛かる不幸のようなものだ。
生まれたいと誰も言っていないのに、拒否する事も出来ないままに生まれさせられる。
生きる環境など全く選べないまま、家庭に恵まれなかった人たちはその後の人生を懸けて致命的な欠損を補おうとするしかない。
埋まらないと分かっているその欠如を、誰もが持っているはずの欠如であっても許せなくなってしまう。
私も彼女たちも、自分を許せないのだ、だからあの表情をしている。
自慢になるけれど私の能力はおそらく高い。
そして、彼女たちの能力も間違いなく高い。
きっと人は私を、そして彼女たちを認めてくれるだろう。
高い能力を努力によって身に着けた人物として、相応の評価を受けられるはずなのだ。
しかし、私はそれに満足出来ない。
おそらく彼女たちもそうなのだ。
松明が奈落へと落ちていくように、私に与えられた評価もすぐにその光を失ってしまう。
私の眼前に広がるのは奈落であり、ただただ呆然とこれまでの人生を続けるのだ。
しかし、そこには救いがある。
一点の光もない場所だからこそ、そこには希望があるのだ。
人生は無であり、私も無であり、何もかもが灰塵へと帰すものなのだという救いが。
私はどこにも存在しない。
私の体は私ではなく、私の意識が私を象っているだけ。
その私の意識すら私ではない。
あるのは言葉にならない「存在」としか言いようのないものなのだけれど、それはすでに私ではない。
私はやはり無なのだ。
主語である私が無なのだから、その主語から始まるあらゆる言葉が無にならざるを得ない。
私の〇〇は全て陰影、虚構でしかない。
だから、無の中で起きたいかなる出来事も、取るに足らない小事という話なのだ。
それが救いになる。
私にとっても、彼女たちにとっても無の意識はこれからも大切になるのだろう。