私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

重い過去は言葉にし始めた時から過去へと変わり始める

しばらくぶりの更新になってしまったけれど、実生活での忙しさが落ち着いたので今のタイミングで記事を書くのはとても気分が良い。

 

夏は毎年大変な思いをしてしまう。

 

というのは、地元で伝統芸能に関わっている影響で、七月は毎年忙殺されてしまうのだ。

 

七月が一年で最も忙しい月かもしれない。

 

何はともあれ、祭りが終わったので一安心をしているところだ。

 

さて、ここからが本題になるのだけれど、四月から通っているカウンセラーの養成講座がようやく今月で終わりを迎える。

 

ここまで来るのに本当に大変な思いをした。

 

私は今年で30歳になるけれど、今の今まで過去を清算出来ていなかったとは思いもしていなかったのだ。

 

私はめったに怒らないタイプの人間なのだけれど、一度怒り出すと必ず酷い状況になってしまう。

 

止まらない怒りを持っている時には、刺し違えてでも相手にダメージを与えようとしてしまうのだ。

 

もちろん、そのような態度では私の方も無傷では済まないのだけれど、それでも捨身で相手に噛み付いていくという行動が止められない時があった。

 

私は養成講座に通うまで気付かなかった事がある。

 

私がそのような怒りを向ける相手には、決まった条件が合ったのだ。

 

私よりも立場が上で、年長で、負うべき責任がある人にしか私は攻撃をしない。

 

裏を返せば、私は私の上に立つ人や立とうとしている人に対して、激烈な怒りを向けやすい。

 

私よりも知力、体力、経験が高い人間以外に私の上に立つ事を一切許そうとしないのだ。

 

この年齢になれば、私よりも愚かな年長者に出会う事がザラにある。

 

私よりも経験不足な年長者にしても同じだ。

 

体力に関しては年齢などもあるから現段階だけではなく、相手の過去なども考慮する。

 

私よりも真剣に体を動かしてきた過去を持つ人間以外に、私の上に立つ資格はないと考えてしまうのだ。

 

なぜ年長者や自分の上に立つ人間に、私はここまで厳しい視線を向けているのだろうか?

 

もちろん、これまで自分を納得させる理由はいくつも考えだしてきた。

 

責任が自分よりあるのなら、それを負い全うするためには自分以上の能力があってしかるべきだから、という理由だ。

 

しかし、養成講座に通うようになって、私はようやくその本当の理由を見付ける事が出来た。

 

私は父や兄を相手に投影してきたのだ。

 

元から許せない相手の影を見ているからこそ、少しの欠点が許せない。

 

一度でもミスをしようものなら、そこを理由にしていくらでも詰問して良いし、指弾しても構わないというスイッチが入る。

 

私が許していないのは年長者ではなく、私に対して暴力によって地位を誇示する当時の父であり、当時の兄なのだ。

 

私は今でも年長者を許せない事がある。

 

それでもこうしたものが私の中にまだあるのだと気付いただけでも、怒り狂う回数が目に見えて減って来た。

 

心の傷や負担は言葉にし始めた時から過去になり始める、というのが私の崇拝する哲学者キルケゴールの言葉の中にある。

 

嘘や虚飾してある部分をいくら言葉にしても意味がない。

 

たとえば、先ほどの下らない理由がそれにあたる。

 

年長者であり私よりも重い責任を全うする人間は、私よりも高い能力を持っているべきだから、それが果たされていない時には怒る、というのは虚飾だ。

 

本当の理由はそうではなく、当時の父や兄を許していないからなのだ。

 

その部分、虚飾をしていない本当の部分、理由を言葉にし始めた時から、私の心は過去の重荷を下ろし始めたのかもしれない。

 

それが怒る回数が減ったという現象に繋がっているのだろう。

 

ここまで来るのに時間も労力も掛かったけれど、ようやく肩の荷が下りた気がして何となく心地良い。