何を考えているのかわからない
私はそう言われる事が多い
私は自分の話をしないからそう思われるのだろうか
何を考えているのかわからないと言われても特に気にしないのがいけないのだろうか
周りの人たちは、いわゆる普通の人たちは自分のことを伝えたり、周りの人たちから伝えられて誰かの事を知っているのだろうか
言葉にしたものはその場から嘘へと変わっていく
目の前にあるものを1つでも正しく形容できる人間なんてどこにもいない
言葉にできるものは本来何もない
だから、似たニュアンスを持つ言葉を「それ」として伝える
スマホならスマホ、加湿器なら加湿器などのようにして不完全に形容して言葉へ作り変える
そうやって誤解に誤解が積み重なって、それが誤解だと理解されない範囲でのみコミュニケーションが成立している
お互いに誤解をしているけれど、それが気にならないのなら理解は成立するのだ
そう考えてみるとやはり人間は虚しい
どうしても伝えたい事も、どうしても理解したい事も、何もかもが私たちの手からすり抜けていく
過去を引きずって徘徊する私の心情も、愛されたかったと悲嘆に暮れる言葉も、日常生活の至る所にトラウマが潜んでいる不安も何もかも言葉にならない
「そこに在る」ことは明確なのに、それが何かと伝えることができない
必死に話していて疲れてしまうのは、こういうところなのだ
伝えたいから必死になるのに伝えたいものは何も届かない、どこにも及ばない
それでも私たちは賢しらな生き物だから言葉にするしかない
伝わらないとわかっているのに言葉にするしか人と交わる方法がない
だから、私たちは誰とも理解し合えない寂しさに貫かれた言葉からしか「本物」を感じられないのだ
『理解されるはず、理解できるはず』という明るく軽薄な言葉は心の皮相にさえ届かない
私たちはどこまでも孤独で
理解してもらいたいけれど叶わず
それでも誰かを、何かを求めることでしか生きていけない
私の目に見えるものはどれもが物悲しく、どこかひび割れているものばかり
そうしたものしか私は受け入れたいと思えない
楽観的であることが努力の産物だという説があるけれど、ずいぶんと能天気なものだ
たかが努力をした程度でこの絶望が、理解されない、できない事実が拭い去れるものか
人生は、人間はハウツーなどで生きてなどいけない
人間の心はたとえ目には見えなくとも脈打ち、生の只中にある
私はこの煩悶と熱を伝えたいのに言葉になるのは生温く、美しいものばかり
人間の力など大抵のものには及ばないのだと理解するところからしか生きていけないというのに
それなのに私は理解したいし、されたいから山のように本を読んで、少しでも自分の力が及ぶ範囲を増やそうとしている
無駄だとわかっていても、私の渇きは酷くなるばかり