「生きていける気がした」
一年以上前、耳にしたこの言葉。
何故なのか私の中で残響が消えない。
「生きていける気がした」
本当に良い言葉。
言葉にされるものは全て前提を持ち、その前提は言葉にされず時には認識すらされない。
例えば「私は男である」と私が口にした場合、私が男ではないと考える人がいるからこそ、敢えて言葉にしなければならないのだ。
あなたがわざわざ「私には足がある」と言わないのは、あなたに足がないと思っている人などいないから。
つまり、言葉は正反対の事実が存在すると暗黙裡に示している。
「生きていける気がした」のならば、その前提として生きていけないと思わせる現実を過ごしていなければ、この言葉は出てこない。
「生きていける気がした」と言えるまでに、どれほどの辛酸を舐めたのか、その人は明かしていなかった。
言葉は炙り出される文字にも似て、確かに言葉は強調されるからこそ目立つ。
しかし、炙り出されるためには背景となる紙が必要なのだ。
「まず全てのものが存在し、今ないものはかつて存在していた」と言った哲学者がいた。
生きたいとか、生きていけるとか、そのように表現したとしてもそこには必ず死の影が生まれる。
炙り出された文字を写し出す背景としての紙のように、目立たないだけで眼前にあるのだ。
結局のところ、言葉は祈りでしかない。
伝えたいと信じるものを、伝わらないと分かっていても伝えようとする悲しい努力の産物が言葉。
それでも私たちは言葉を通じてしか分かり合うことが、分かり合えたと信じることができない。
伝えようとする相手の気持ちを受け止めようと祈る言葉しか、私たちは使えない。
より深く言葉を理解しようと努めても、祈りは祈り、願望の域を出られない。
不自由で苛立ちと虚しさを誘う、この感覚と共にしか言葉を使えないのだ。
私は真実を口にできないし、誰の口からも真実など出てこない。
それでも自分を含めた誰かを信じたいと思った時、言葉は祈るために私たちの口から滲み出す。
分かり合えない事が悲しい。
伝えられない事がもどかしい。
受け止められない事が不甲斐ない。
理解しようとすればするほど、大切な人から朧になる。
伝えたいことほど遠ざかる。