文化とは生き方と、それを支える価値観の事。
私は文化が好きだし、芸術を愛している人間だけれども、それが時々苦しい。
嘘を吐いた。
時々ではなく、常に。
私たちの生きている現世では文化=エンターテイメント産業だと理解される事が多い。
文化が消耗品扱いされるなんて世も末だ。
来年は誰もが忘れているものが文化であるはずがない。
それは流行であり、一時の気の迷い。
生き方が短いスパンで変わってたまるものか。
生き方を支える価値観が日毎夜毎に移り変わってたまるものか。
私たちがどのように生活し、朝起きればどのように挨拶し、敬意をどのように示し、羞恥をどのように処理し、苦難に際してどのように克己するのか。
それが文化なのに。
ここに含まれる重要な要素は選別は不可能である、という点。
フォアグラが好きだからフランスに生まれる事は出来ない。
教会が好きだからイタリアに生まれる事は出来ない。
私たちは文化を選べない。
文化は強制力を持ち、私たちに埋め込まれるもの。
気が付けば私は日本人として、日本文化に染まって人格形成される。
生きる場所を海外へ変えたところで、海外にいる日本人でしかない。
異なる文化に染まったと思い込む日本人になるのが精々。
強制的に付与されるものだからこそ、そこに軋轢や摩擦が生まれる。
愛着や敬意が生まれる。
文化をエンターテイメント産業だと言う人達に対して、私が感じ取る深い諦観の正体は好きなものを選び取れる、と考えている点を淵源としているのだ。
受け入れるしかないもの、そこからしか生まれない情動。
受け入れがたく、認めがたいものもある。
私にはそのようなものばかりあると言っても良いくらい。
しかし、私の自意識が如何なるものであっても、結局のところ現実の煩悶は雲散霧消するはずもない。
運命を受け入れつつも反撃のチャンスを狙うような重厚な、怨嗟にも似たその心性。
そういうものを感じたいのに。
そういうものだけが生きているものに感じられるのに。
選択可能、取捨可能だと考える場所からは軽薄さしか漂ってこない。
そうして私の痛憤はさらに色を濃くし、熱を上げていく。
このまま熱を上げ続け、私の骨を溶かしてくれたらいいのに。