同情は相手の身に起きた事が自分にも起こり得ると確信してこそ価値がある、とキルケゴールは言った。
可哀想などと軽率に口から出てくるようでは同情ではなく相手を見世物扱いしているのだ。
可哀想という言葉がどうのという話ではなく、その心性、相手と自分は隔絶された存在だと無根拠に安息しようとするその怠惰な精神が相手を人ではなく見世物に変える。
常に全ての可能性は拓かれている。
あらゆる悲劇と幸運の糸口が、私の眼前に散乱している。
タイミングと状況さえ整えば私は人を殺すだろうし、助けるはず。
私、なんて確固たるものがない証左。
私は悪人にもなるし、聖人君子になるチャンスもある。
不幸にうちひしがれている相手をいつかの自分なのだと自覚すれば、その煩悶、憤懣を知れば、慰める行為それ自体が僅かに残された相手のプライドを打ち砕く危険性にも気付ける。
慰めてはならないのではなく、慎重に対応しなければならないのだ。
たとえ今は倒れていても、相手も私と同等の人間なのだ。
倒れている姿など見せたくないはずなのだ。
言わぬが華、知らぬが仏という格言の意味が年を取るごとに重く感じられるようになった。
私は一度その世界に足を踏み入れ、満身創痍で逃げ帰った。
まだ知らない振りを上手にできるほど成熟していなかったのだ。
しかし、またあそこへ行きたい。
本当の苦悶と本当の優しさが混淆する、あの場所に。