東京には雪が降った。
積もってもいないのに、ただ屋根が仄明るくなっただけでニュースがあれこれとかしましい。
嬉しくなると悪態を吐きたくなるのは何故だろう?
私は幼い頃から雪が好きだ。
正確には雪に染められた風景を見るのが好きなのだ。
全てが白く染め上げられ、確かに私が生きている街なのに全てがリセットされたかのような、その風景が私の心を何度励ましてくれた事だろう。
全てなかった事になれば、私の心はどれほど空くだろう。
最近、哲学や心理学の事で質問される事が多くなった。
多くの人が病んでいるという事なのだろうか?
ともあれ、私は知っている限りの事を伝えるしかないので、質問に答えていると似たような反応が返って来る。
考えた人にとっては有益であっても、自分にはそれほど腑に落ちるものではない。
言い方や表現の仕方は違っても、おおむね内容はこのようなものが多い。
彼らは自分の好物を誰かに決めてもらうつもりだったのだ。
決して批判をしたいわけではない。
そうではなく、私は彼らとの認識の差を自覚させられたのだ。
自分の好物を何故好きなのか、その理由を問うても答えなど外在しているものではないのだから、内へと目を向けていくしかない。
哲学はそのための道標程度の役割しか果たさない。
プラトンがソクラテスがアリストテレスがキルケゴールがショーペンハウアー、ヘーゲル、ナイチンゲールがどう申し開きをし、思考したのかなど私の人生には無関係なのだ。
世界中に散らばる哲学書をどれほど丹念に読み込んでも、そこに私の人生は出て来ない。
私の人生の目次や本文は私にしか読めないものなのだ。
私にすら分からないものまである。
私の好きな食べ物、好きな人、好きなもの、好きな風景、好きな時間、好きな云々。
その全てに理由などない。
いや、その全てが好きな理由を私は知らない。
哲学や心理学は日常生活で汚れた私の心をある程度掃除する事に役立ったとしても、私が生きる事には一切影響をもたらさない。
偉人の名言や考え方を知っても、それは私の人生や考えではない。
だからこそ、苦痛は日々深くなる。
懊悩はより広大な空白を私の中に生み出す。
私はまた肉の器となり、私はまたあの頃へ引きずられていくのだ。
懊悩は深くなるばかり、辛酸は酷くなるばかり。
何もかもがこの疼痛を和らげるのに役立たない。
ただただ動物が痛みに喚くように、私はこうして文章を作るしかない。
病院の薬には二度と頼りたくないし、違法な物事に手を染めるつもりもない。
私は私の人生がここまで悪臭芬々としている様に、正気を保ちつつ耐えていくしかないのだ。
酒もアレルギーになってしまったので飲めないし。
今日はもう寝よう。
どうせ眠れないまま、また朝日を眺める事になるだろうけれど。
保安灯だけ点けて、好きな音楽を小さな音量で掛けて、ベッドに横たわろう。
生まれた意味も今日はいている靴下を選んだ理由と大差ないんだから。