例えば『美しい』という事と『美しく見える』という事の間には埋められない間隙がある。
しかし、世間では『実際にどうであるか?』よりも『どのように見えるか?』を気にしている人の方が多い。
例えば私が『私は男だ』と言わないのは、私が男であるという確信を持っているから。
確信を持っている事について人は言葉にしない。
だから、本当に美しい何かを持っている人は、美についてかなり無頓着な場合も多い。
それは容姿に限らず、技能や知性、体力や精神力にも通底する。
つまり『どのように見えるか?』に拘泥する人たちというのは、誰よりも自分が自分を認めていないという意味でもある。
誰から認められようとも、自分で自分を否定しているのであれば満たされない口渇に苦しむばかり。
最近つくづくとして感じるのは、幸福というのは無意識であるという事。
あれやこれやと気掛かりな事を抱えず、自分にとってニュートラルな状態が幸福なのだ。
そう考えると人生はやはり煩悶の連続だと言わざるを得ない。
年を重ねれば重ねるほど、経験を積めば積むほど思い入れの強い何かが増えていく。
それは人に対してかもしれないし、場所や状況に対する執着なのかもしれない。
何であれ生きるという事は思い入れを強くしていく営みなのだ。
思い入れが強くなればなるほどに縛られるものが多くなり、それによってニュートラルな状態から離れていく。
年を経ても穏やかな人に魅力を感じるのは、そうして積み重なる思い入れを丁寧に処理してきた迫力を感じるからなのかもしれない。
降り積もる思い入れの数々をただ放置しておけば、ゆとりは失われ僅かな衝撃で瓦解するほど精神が不安定になる。
年を重ね、自分以外の人間を支えていく機会が増えていく中で、私にとっての理想的な人物像も少しずつ変わって来た。
そこにいる前と、いた後で変化を起こさない人物になりたい。
これは取るに足らない人物という意味ではなく、自分の与えた影響を回収できる人間という意味だ。
以前は何か良いものを残したいと思っていたし、そうした気持ちが蒸発したわけではない。
けれども、私は今は影響のない人物になりたい。
願わくば、私は誰からも見えない人間でありたい。
苔のように存在している事は知っていても、見ようとしなければ視界に入らない、認識されない人物に。