疲れてる日はどうでも良いことで苛立つ。
それは疲れて動けなくなるのを防ぐ本能の仕業なので、私は苛立ってもその勢いで行動を起こさない。
明日になれば忘れているようなことで、明日にまで残る悪影響を出すなんて馬鹿げている。
三連休で浮き足立つ人の群れも、出てくるのが遅い飲食店も、顔のレベルで交流を持つかどうか決める人も、明日になればどうでも良いのだ。
疲れの原因は昨日の筋トレなのだから明日はまたいつも通り穏やかな自分に戻っている。
世の中には様々な系統の構ってちゃんがいるものだ。
人に迷惑を掛けず、ひっそりテリトリー内で楽しくやっている人たちを見ると尊敬の念さえ湧いてしまう。
世俗的な愛や恋や道徳を足蹴にしながら、それでも人に悪影響を出さないように振る舞えるなんて器用なものだ。
私はそのテリトリーに入るつもりはないけれど引き込もうとしてこない限りは仲良くしていられる。
確かに道徳は下らない面を山のように持っている。
足蹴にしたくなる気持ちも分かる。
私を助けてくれない神や仏が、どれほど偉大だと言われても信じようもない。
純粋、誠実に、真っ当に生きようと心掛けても、人は堕落せず生きる道など進めない。
道徳はいつしか目指すべき目標から、私たちの首を刈る呪いへと変わる。
堕落するなら全力でしてやろうと考える人がいても、私はそれほど不思議だとは思わない。
思わないけれど、それでも私は悪あがきしたいのだ。
どこかに、何とか堕落する速度を少しでも遅らせる何かがあるのではないかと探したくなる。
そんなものはないと分かっているのに。
私は堕落をそのまま受け入れられる人間ではない。
小賢しく、意地汚く、それでも必死に真人間になりたがる人間。
なるべくなら人を傷付けずに済むように。
出来るだけ手の届く人たちを労るように。
私が生きた価値があるのだと、そう信じるためにも。
私と出会った甲斐があるのだと、そう信じさせるためにも。
大切なものほど汚し、傷付け、貶めるのが人間なのに。
まだ私は目が覚めないまま。
精神は小児病に犯されたまま。
綺麗に生きる道はないか。
美しく死ぬ術はないか。
生まれたことを後悔だけで終わらせない何かはないか。