私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

円周の上で

死にたい、という言葉は昔から違和感があった。

 

死とは全てを無に還す力の頂点のようなもので、そこに願望としての「○○したい」という言葉が続くのはあまりにもおかしい。

 

暑い冬とか、空を歩くとか、それに近い違和感。

 

虚無を目指す時、人が力を出せるはずがない。

 

放っておけばそうなるのだから。

 

目指さなくても手に入るのだから。

 

ないものだから欲しくなるはずで、今あるものを手に入れようとするわけがない。

 

しぱらく私は自己と他者をじっくり観察し続けた。

 

「死にたい」の違和感がどこから生まれるのかを知りたかったのだ。

 

そして分かった事は、やはり死にたいと思って「死にたい」と言う人は少ない事実。

 

大抵の場合、人は死にたいほど手に入れたいものが手に入らないくらいならば死んだ方がマシだと言っていた。

 

愚かで無邪気な幼い頃の私もそれだった。

 

手に入れたいものは愛してくれる家族かもしれないし、恋人かもしれない。

 

能力や名誉、承認欲求を満たすものかも。

 

何であれ、やはり「死にたい」と訴える人は私も含めて死にたくなどなかった。

 

死と欲求は相容れない。

 

死はあまねく事物を無効化、無力化し、恐ろしいほどの静寂しか残さない。

 

そこに活動的なものなどあるはずもないのだ。

 

そう思えばこそ、やはり人は生きるしかない。

 

死にたくなっても、そこには何とか生きようともがく自分が必ずいる。

 

まだやれることがある、まだやり残した事があると体が雄叫びを上げる。

 

賢しらな知性を薙ぎ倒す本能が目を覚ます。

 

万物は流転し、諸行無常な空蝉はこうして美しい円を描きながらその円周上で嘆く人間になど見向きもせず、ただありのまま、そのままで在り続ける。