今日は普段しないような話を、普段なら話さないような相手にしてきた。
私は普段、相当な信頼を寄せている相手にしか自分について話さない。
とりわけ、自分の過去についてはめったに話さない。
私はいまだに私の過去を「私の記憶」として受け入れていない節がある。
もちろん、理性では明らかに私の過去であると知っているし、理解もしている。
しかし「現在の私」と「過去の私」を結ぶはずの紐帯である「実感」が私にはない。
起きた事は知っているし、それが私の過去である事も自覚しているのに。
この気味の悪い感触をどう説明すれば良いのだろう?
例えば腕だけが自分のものではないような感覚なのだ。
誰のものだと尋ねられると間違いなく私のものであると答えるしかない「私ではない」と感じる遺物が精神に練り込まれている。
それなのに過去について語ると鉛でも飲まされたかのように、私の体は重くなるのだ。
映画や小説の内容について語っているようなものなのに、私の体は「それ」が過去だと知っているらしい。
私の心はそれを必死になって忘れようとしているのに、感覚は「当時」を覚えている。
自分について理解して欲しいという欲求が極端に少ない私にとって、私自身の話ほどつまらないものはない。
私自身の話ほど口にしたくないものはない。
幼い頃、私は私という存在を認めさせようと血眼になっていた。
無視したくても出来ない存在として認められるためには実力が必要で、その為の努力ならば誰よりもした。
その代償も払った。
そして、私は数え切れないほどの賞を取った。
賞を取れば取るほど、実力が認められるほど、自責の念はそれ以上になって覆い被さった。
私はおそらく、当時から自傷行為として能力を磨いていただけなのだ。
認められたいわけでも、成長したいわけでもなく、私は「周りが称賛する形」で自傷行為が出来ると気付いただけだった。
年齢を重ね、成人になり、私が学んだことは。
叫びたくなるほどの情動から遠ざかる事だけ。
自分が空虚である事だけ。
幼い頃から目指していた場所が星空だと知っていれば、私はあれほど無邪気に手を伸ばしたりしなかった。