枝豆とビール。
冬と雪。
涙と嗚咽。
こうしたものから受けるしっくりした感覚、おそらく多くの人が経験した事があるのではないでしょうか?
「そうそう、これこれ」と思わず言いたくなってしまう感じ。
先日、文学フリマなる催しに初めて行った時、私はまさにこういう感覚を覚えた。
「元カレは皆、亡き者と思う。」というタイトルを見て、その傍らに腰を下ろしている細身の女性を見た時、あまりのしっくり感に笑ってしまった。
この人はきっと絶対にそう言う事を言いそうだという雰囲気が充満していたのだ。
「元カレは皆、亡き者と思う。」というタイトル自体は誰でも作れるし、女性ならそう思った経験は誰にでもあるのかもしれない。
しかし、あのしっくり感はきっと著者の女性にしか出せないもので、もうそこにあのタイトルを掲げて「いるだけ」で表現が完了しているような、そんな雰囲気すらした。
まずこのタイトルを考えたというだけで天才なのではないかと思った。
私は思わず一緒に回ってくれた友人に手荷物を預け「元カレは皆、亡き者と思う。」という本を買ってしまった。
もう少し御本尊を大切に拝めば良かったのだけれど、見世物扱いしているようで申し訳なく、あいにくほとんど顔を見る事が出来なかったのが残念。
もうこの本を手に入れただけで仕事で疲れ果てた体に鞭を打ち、友人を突き合わせてまで文学フリマへ行った甲斐があったというものです。
大切に読み進めて参りました「元カレは皆、亡き者と思う。」という小説を読了したので書評を書いてみようと思った次第。
全体的に本能に満たされている雰囲気が強くした。
例えば喉が本当に乾いている時、グラスに水を注ぎ丁寧に片手をグラスの底に宛がい、お上品に水を飲む人はいない。
本当に喉が渇いている時にはなりふり構わず、グラスごと飲み込むかのような勢いで水を流し込む。
口の端から水が零れようが、そんな事に構ってなどいられない。
水を飲ませろと本能が告げている時、私たちは礼儀や作法が「生きる事に不必要」であると思い知らされる。
本能というのはそこまでの力を持っていて、私たちの賢しらな理性を容易く瓦解させる。
いや、理性などというものは幻想以外の何物でもないのだと、私たちは本能を核にして生きるしか道のない動物なのだと教えてくれる。
必死に生きるというのはまさにこうした感覚なのだ。
愛情に振り回され、本能に蹂躙され、それでも生きるというのはこういう事なのだろう。
「生きる、ただそれだけの為に命を削る必要があった」という言葉は、10代後半から20代前半の私を支えてくれた、とても重要なもの。
それを思い出させる無常観、悲壮感、厭世観と生命力が文章から満ち満ちていたように思う。
どうしてなのだろう?
厭世的なものは中央線ではしっくりこない。
どうして厭世的なものは京王線がしっくりくるのだろう?
京王線は物悲しいから私はよく使う。
特に夜の京王線は何か物思いに耽ったり、ホームに降りた時の寂寥感が強い。
きっと、この小説には京王線が必要だったのだと思う。
だから、私はこの小説を京王線に乗っている時、かなり読み進めた。
より深くその世界に近付けるような気がして、それが楽しかったのだ。
もちろん、悲壮感溢れる話ばかりではなくオシャンティーなシティーガールみたいな話も盛り込まれていたので、緩急がとてもバランス良かったようにも感じた。
この小説を書いた人が物書きを生業とせず、野性で生きているという事は本当にすごい。
ふぅむ、文学フリマは私が思っていた以上に面白い場所だったようだ。