午前一時は私にとって1日で最も好きな時間。
救いようのない陰鬱とした曲を掛けながら、友人のブログを眺めたり、こうしてブログを書く。
1日の中でただ文章だけに触れる時間。
疲れ果てた体、止まらない耳鳴り。
体がもう限界だと、毎日この時間になると悲鳴を上げる。
そんな時、どうして鬼束ちひろが染み込んでいきやすいのだろう。
思い返せば、疲れていない時期など人生のどこを切り取ってもなかった。
疲れていない日はあったけれど、それは夏に海へ入るようなもので非日常。
束の間訪れる凪のようなもの。
鬼束ちひろは疲れ果てた私に、いつでも優しい。
中学生の頃から狂ったように聞いている。
最近は丸くなってしまい、手紙の歌なんて出していたっけ。
ありのまま、そのままで良いと。
鬼束ちひろはそういう段階へ入ってしまったらしい。
凪いで、穏やかで、寂しいけれど救われる段階へ。
悲しいけれど見送るしかない。
私はまだそこへは行けない。
まだ過去にするには生々しく、私の怨嗟が残響するこの心を抱えてそこへは行けない。
私は失くしたものを恨めしく数えては、まだ自分を憐れんでいたいのだ。
そうしなければ文章が書けないから。
悟るつもりなら、鬼束ちひろが踏み出したところへ行けば良い。
しかし、私は悟るつもりなどない。
私は産み出す人間でいたいだけなのだ。
エゴや自己愛、自己憐憫に満ち満ちた反吐が出るようなこの場所には見たくもないものばかり。
聞きたくないものばかりが無尽蔵に溢れていく。
その汚濁の中から言葉を紡ぐしか、私はやり方を知らない。
穏やかで本当に必要なものが僅かにある、そんな場所には憧れる。
けれども、騒がしく感情の散乱するここにしか、私が落ち着ける場所はない。
居場所はここだけなのだ。
神様はこんな私にも一応は居場所を用意してくれたらしい。
人の中、社会の中ではなく己の中に。