一昨日、新宿のカラオケでこの歌を歌った。
私は比較的声が高いからなのか女性歌手の歌もカラオケで歌う事が多い。
もちろん、原曲キーでは無理だけれど。
ともあれ、この歌を歌って一人の同世代の人が妙に感動していた。
柴田淳を好きになる人は悲しい人が多い。
届かない、及ばない、報われない。
こんな言葉を人生の中で強く実感した人に、柴田淳の歌は染み込んでいく。
私はそんな人間の一人で、彼もそんな人間の一人だったらしい。
「俺が女だったら惚れてます」と言われ「柴田淳の歌は良いですよね」と答えると「歌詞もそうだけど声が好きっす」と褒められ嬉しかった。
異性から褒められるより、同性から褒められた方が心に響くのは、そこに衒いがないからなのだろう。
声を褒められるのは実は好き。
私は童顔で、身長も168㎝と低いので容姿には自信があまり持てない。
今日も扁桃腺が腫れ上がり病院へ行くと受付の人は当たり前のようにタメ語だった。
声と顔のせいで私は子供とまではいわないけれど、決して成人らしい扱いを受けない。
問診表に年齢を書いた後、相手の態度が必要以上にへりくだるのは、子ども扱いをした罪悪感からなのだろう。
容姿に関してはこんなささくれのように苛立つ痛みが多かったからなのか、褒められても嬉しいとは思えないのだ。
しかし、声は違う。
特に歌声は。
歌声は地声とは異なる声になる。
妙に幼い響きの声ではなくなるのだ。
女性であればすっぴんとメイクをした後のような違いなのかもしれない。
声帯に化粧を施し、それが褒められる。
確かにありのままの自分ではないけれど、私はそれでも良い。
作ったものでも良い、いや、作ったものだから良い。
私が踊る時に付ける能面のように、その下に隠れている素顔を隠したものだからこそ良い。
作られたものであっても、それは間違いなく私から生まれたもので。
そして、作られたものだからこそ美しくて。
怒りと怨念と悲嘆が滲むありのままの私など一切感じられない、作られた声を褒められるのは嬉しい。
私から濾過された美しいものだけが見られている気がして。
歌手を目指したいとか、歌で表現をしていきたいとは思わない。
私は歌えればそれで良いから。
私は柴田淳を気に入った彼のような人と一緒に、カラオケでしんみりできればそれで良い。
生活の中にしっかり溶け込んだ形で歌と接したい。
仕事や表現だと片意地張ると、私はきっと歌が嫌いになってしまう。
こういう時は死が傍らにあるから注意しなければいけない。
感性が刺激されると境界線が見えなくなる。