私の目に見えるもの

愛煙家のブログ

彼岸と此岸の境界

私は歌うのも好きだし、歌を聴くのも好きで日常の中に音楽がいつでも溶け込んでいる

 

特にピアノや弦楽器の音が本当に好きで、何時間聞いていても飽きる事がない

 

しかし、私が一番気になるのは歌詞

 

物書きだからなのか、歌詞の良し悪しで歌全体の好きか嫌いかまで影響してしまう

 

学生時代によく聞いていた歌を久しぶりに見かけた

 


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ずいぶん昔に聞いていたからなのか曲調はおぼろげに覚えていたけれど、歌詞をすっかり忘れてしまっていた

 

昔を思い出そうとその歌を聴いていた

 

そして、最後で落胆してしまった

 

暗い歌に救いはいらないし、暗いものは暗いものの良さがあるのに

 

ハッピーエンドにしたがるのは人間の悪癖

 

希望がなければ生きていけないと思うその慢心が苦しみの原因なのに

 

希望がなくても人は生きていける

 

希望が与えられるばかりではなく、自分でも生み出せるものだと気付けばという条件が付くけれど

 

今は見付からなくても、いつか自分で希望を生み出す気概があれば、絶望的な状況などいくらでも乗り越えていける

 

それに疲れてしまったのなら死んでしまっても仕方がないけれど……

 

なぜ希望はどこかに在るものだとばかり思われるのだろう

 

どうして助けは誰かや何かから得るものだと誤解されているのだろう

 

誰かに生きる力を与えられなければ生きていけないのであれば、もう精神の壊死は始まっている

 

他人や環境は自分が弱った時に寄生する対象ではない

 

現実的にはそうなるとしても、なるべく人に手間や世話を掛けないように生きようとする気持ちくらいは持っていて欲しい

 

歌の途中まで現世と幽世の境界線を歩いているような、とても良い雰囲気だったからこそ最後の明るさが余計滑稽に映る

 

その地点から希望が見えるはずがない

 

夏の昼間に空を見て流れ星が見えたと言う人間は嘘吐きなのと同じ

 

例え流れ星が現れても昼間に見えるわけがない

 

境界線から見えるのは髪の毛一本の重さで彼岸へ倒れ込む弱弱しさと、全てのものが淡い霧に包まれて輪郭がぼやけているものばかり

 

だから、歌詞の中にあるように靴紐がほどけて死のうと思うのも当然なのだ

 

どんな衝撃にも刺激にも耐えられない、薄氷でも厚いと感じるような場所に立っている人間が急に誰かに期待を始めて、誰かのお陰で生きようと思うのであれば、靴紐がほどけて死のうと思ったのは構って欲しい気持ちが肥大化しているだけ

 

死のうとしているのではなく、死のうとしている自分を表現して誰かに見せつけたいだけ

 

何かに期待をしたり、まだ誰かに対して一方的に希望という名前で寄生できる間隙を見出して搾取しようとたくましく思えるのであれば生命力は横溢している

 

死ぬわけがない、そんな人間が

 

生き残ろうと野心丸出しじゃないか

 

どこに行っても希望がないと悟った時、自分の力で生きようと思った時、誰も助けてくれないし、誰も助けられないのだと心底絶望した時、初めていわゆる『希望』が輪郭を見せてくれる

 

大雑把に言えば自分の力で行けるところまで生きていけ、という話なので一般的な希望とは全く違うものだし、だからそれがあってもないものとして世間では扱われているけれど

 

暗い歌に救いはないけれど、そこから自分次第で生み出せる希望がある意味では救いがないことが救いになっている

 

暗い歌がそこで終わらないと分かっていれば、その先に進む道があると気付いていれば何とでもなるものなのだ

 

『悲しくてやりきれない』『infection』のような、救われないところに救いがある唄かと思って浸っていたのに本当に残念

 

最後に言うけれど私は中島美嘉が本当に好きです、フォローとかではなくて本当に

 


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