案の上ともいうべきなのか、台風が来ていると知った時から不安があったけれど、やはり神経痛が出てきた。
坐骨神経痛を患ってもう20年近くになる。
背骨が折れてしまったのは中学二年生の時だった。
その後、手術などをしたけれど神経痛だけはどうにもならないまま。
何故なのか神経痛そのものが酷いわけではないけれど、この痛みは私の精神を一気に衰弱させる力を持っている。
こんな事ならば終電でなど帰らず、朝まで飲み屋に居れば良かった。
と言っても、私はジュースしか飲めないのだけれど。
小説を書き始めると精神が憔悴する。
私は一人で過ごす事が本当に好きで、疲れている時ほど誰にも会いたくない。
人と会って元気になれるタイプもいる。
そうした手合は相手のエネルギーを吸収している事に気付いているのだろうか?
そんな恨み言を言うくらいなら、私は一人でいた方が良い。
被害妄想に振り回されて、自己憐憫に浸っていることほどバカバカしいものはない。
しかし、どうしてなのだろう。
一人でいる事がこの上なく好きな私が、小説を書くと決めた辺りから活動的になった。
つまり、精神的には疲れていないのだ。
確かに小説を書く事は辛い。
過去が荒波のように私を襲い、冷静な感情を溶かしていく。
それなのに精神が充実しているのは矛盾なのだろうか?
それとも私はこんな荒波だった精神状態でこそ、充実していると感じられるおかしな人間なのだろうか?
答えは分かるものではないけれど、何となく嘆息を吐きたくなる。
私は穏やかな毎日と静かな時間をこの上なく愛していると自覚してきたのに、実際に充実しているのはこんな浮き沈みの激しい日常の中なのだから。
きっと、バランスを取ろうと必死になっているのだろう。
荒れ狂う精神を慰めるために、私は平穏を渇望している。
実際に精神が凪ぐと、今度は自ら混沌へと足を踏み入れる。
そうしてまた穏やかさが恋しいと一人芝居をするのだ。
遠目で見ればこんなに愚かな事はない。
欲しいものをわざわざ捨てて、嫌だと言っている場所へ飛び込んでいるのだから。
私が私を信用できないと思っているのは、こうした愚昧な行動を続けているからだ。
静かに生きていたい。
もう荒れ狂う毎日には疲れ果てているのだ。